1977年12月31日、その日ぼくは、3ヶ月後に東京に出るなどとは、みじんにも思ってなかった。 「さて、来年はどうなるかなあ」と、人ごとのように来る年を占っていたのだ。 年が明け、正月が過ぎ、母は「今後どうするのか?」と聞くようになった。 最初は「考えよる」と答えていたのだが、その後そのことをしつこく言われるようになった。 3月のある日、いつものように母が「今後どうするのか?」と聞いてきたので、思わず「東京に行く」と答えた。 「じゃあ、東京に行け」ということになってしまった。 翌月、ぼくは東京に出た。 考えてみると、衝動がぼくの人生を作ったといえる。
あれから25年経ったわけだが、相変わらずぼくは「さて、来年はどうなるかなあ」と、人ごとのように来る年を占っている。 年齢と周りの環境と立場が少し変わっただけで、ぼくの本質は、あの頃と全く変わってないのである。
ところで、東京に出て何かいいことがあったのかというと、まったくなかった。 強いてあげれば、『ショートホープブルース』が出来たことくらいだろうか。 あの歌を作った頃は無敵だった。 「この歌で、今までふられ続けてきた音楽業界に殴り込みをかける」と意気込んだものである。 しかし、それも自己満足に過ぎなかった。 そういうものを生活に結びつけるなどということは、夢のまた夢である、とわかったのはずっと後のこと。。 幾たびの詩の投稿や、歌のオーディションを通して、ぼくは自分が大した才能や運を持っている人間ではないということを覚ってからのことだった。
それ以来、ぼくは夢を忘れた日々を送っている。 さて、来る年はどういう年になるのか。
と、今年最後の日記をまとめたところで、一句。 「すす払い 出てくるものは ゴミとグチ」 来年もよろしく。
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