午前中にNTTの工事があるというので、今日は出勤時間を遅らせた。 通常より1時間半遅い出勤となった。 天気予報では、今日は一日中晴マークがついていたのだが、朝から時々雨が降ったりしていた。 灰色のような青いような、なんとなくすっきりしない空の色が、普段とは違った街の姿をかもし出していた。 「そういえば、こういう天気は以前にもあったなあ」 などと思いながら、ぼくは車を走らせていた。 ちょっとしたことが、忘れていた過去を思い出すきっかけとなることがある。 それは、音楽や、ノートの切れ端や、その時の心象や行動、テレビや映画の一コマだったりする。 今日の起爆剤は空の色だった。 「さて、いつのことだったか?」 遠い記憶であることは間違いないのだが。 今日はそのことばかり考えていた。
その答が出たのは、夜家に帰ってからだった。 保育園に行っていた頃だったか、それ以前だったか、肩を脱臼したことがある。 テレビを見ながら寝ていた時、「寝床に行きなさい」と母親に起こされた。 ぼくが何度起こしても起きないので、母はぼくの手を引っ張って起こそうとした。 その時だった。 「グキッ!」という鈍い音がした。 その瞬間、肩に鋭い痛みが走った。 それまで味わったことのない痛みだった。 当初、筋をたがえたくらいにしか思われてなく、母は「寝たら治るよ」などと言っていた。 痛みに耐えて、何とかその日は眠りに就いた。 翌朝起きてみると、相変わらず痛みは引かず、肩はダラーンと垂れ下がった状態だった。 しかたなく病院に行くことになった。 朝早く、近くの済生会病院に行ったのだが、「ここは午前9時からじゃないと開きません」ということで、1時間近く待たされることになった。 しかし、あまりの痛みに我慢が出来ず、そこを出て他の病院をあたることにした。 「そういえば、黒崎の車庫前に『ほねつぎ道場』があったねえ」と、親戚のおばちゃんが言った。 「じゃあ、そこに行こう」ということになり、当時あったチンチン電車に乗って、その「ほねつぎ道場」へと向かった。
電車を降りて、少し歩いたところに薄暗い路地があった。 その路地の片隅に、「ほねつぎ道場」はあった。 その道場に着いてしばらくすると、柔道着を着た人がぼくの前に現れた。 その人はぼくの肩を触ったり、腕を回したりした。 そして、「ああ、はずれてますね」とこともなげに言った。 「ぼく、ちょっと痛いけど我慢してね」 彼はそう言うなり、ぼくの腕を軽く引っ張った。 かなり痛かった。 「はい、力を抜いて」 そう言われても、こちらには昨夜の恐怖心がある。 腕を引っ張られると抵抗してしまう。 その人はかなり手を焼いていたようだった。 しかし、何度か腕を回したり引っ張ったりしているうちに、こちらも抵抗しなくなってきた。 そのタイミングを見計らって、彼はぼくの肩を抑え、腕をグッと押し込んだ。 そして「腕をまわしてみて」と言った。 ぼくは恐る恐る腕を回してみた。 すると、先ほどまでの痛みがうそのようになくなっていた。 この間約5分であった。 しかし、ぼくにはかなり時間がかかったように思えた。
ほねつぎ道場から出て、その日はじめて空を見た。 家を出た時は、痛みで空を見るほどの余裕がなかったのだ。 灰色のような青いような、なんともすっきりしない空の色。 ちょうど今日の午前中のような天気だった。 あのときの痛みもなんとなく覚えている。 そういえば、今朝も肩が痛かった。 ま、あの時は今のような鈍い痛みではなかったが。
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