| 2002年07月26日(金) |
アルバイト遍歴 その6 |
このバイト中、ぼくは一度だけ活躍したことがあった。 マルタイ食品の『長崎チャンポン』というのがある。 九州で大ヒットしたカップ麺で、ぼくがそのスーパーでバイトしていた時に新たに店頭に並べられるようになった。 Hさんが、「お前、これ知ってる?」と聞いた。 「『長崎チャンポン』ですね。知ってますよ。よく食べてましたから」 「おいしいの?」 「はい。おいしいですよ」 「どうやって食べるの?」 「普通どおり食べてもいいけど、玉子とか入れて、ソースを落とすとおいしいですよ」 「ふーん。じゃあ、お客さんに尋ねられたら呼ぶからさあ、ちょっと説明してやってよ」 「いいですよ」 ということで、ぼくは何人かのお客さんに説明した。 「これおいしいの?」 「おいしいですよ。九州では大ヒットしてますよ」 「本当?」 「九州人のぼくが言うから間違いないです!」 「あら、あなた九州の人なの。じゃあ、間違いないわね」 そう言って、お客さんは何個か買っていった。 ぼくはこの時、初めて物を売る喜びを知った。
わりと楽な仕事だったにもかかわらず、ここでのバイトは10日も続かなかった。 それは、この44年間の人生の中でも最大級の病気にかかってしまったからだ。 その病気とは胃痙攣である。 その前の日、ぼくは何も食べなかったのだが、バイトをしている時に空腹のピークを迎えた。 「腹減ったー」などと言っていると、同じバイト仲間が「これ食べな」と言ってアイスクリームをくれた。 おかげで、空腹感はなくなった。 下宿に帰り、タバコを吸っている時だった。 胃に軽い痛みを覚えた。 最初はそれほど気にならなかったのだが、その痛みが周期的に度を増してやってくるようになった。 おそらく空腹のせいだろうと思い、買い置きしていた例の『長崎チャンポン』を食べた。 しかし、痛みは引かなかった。 かえって周期が速くなってきた。 翌朝もその痛みは引かず、下宿でのたうち回っていた。 その日は一歩も外に出ることが出来ず、とうとう連絡も取らないまま、ぼくはバイトを休んでしまった。 後にも先にも、ぼくが無断で仕事を休んだのはこの時だけである。 その状態は一週間続いた。
ようやく体調が元に戻った。 バイトの方は、どうせクビだろうと思っていたので、「クビ」と言われる前に自分から辞めに行った。 バイト先に行くと、ぼくは例の人事の親父に呼ばれた。 親父は「一週間もどうしたんだね」と聞いた。 ぼくは一部始終を話した。 そして、「まだ万全だとは言えないので、一応バイトは辞めたいんですが」と言った。 親父はうなずいた。 何日か分の給料をもらい、ぼくはバイト先を後にした。
その後は決まったアルバイトはしなかった。 北九州への帰省賃稼ぎに、晴海の集中郵便局に行ったくらいだった。 続けてやろうかとも思ったのだが、もはややる気を失っていた。 冬にこちらに帰った時も、夏に行ったアルバイトに一週間通っただけである。 東京に戻ってからは、もう何もしなかった。 残りの東京の日々は遊んで暮らした。
春、北九州に戻ってきた。 いよいよ就職であるが、ぼくはその時点で、まだ就職が決まってなかった。 そこで一年間、長崎屋でアルバイトをすることになった。 アルバイトとは言え、メーカーの準社員扱いだったため、いろいろとノルマを与えられ、責任を負わされた。 もはや以前のような、気楽なアルバイトではなかったのである。 しかし考えてみると、その長崎屋でのアルバイトは、以前にやっていた気楽なアルバイトとは無関係ではなかった。 前にも言ったが、長崎屋でのアルバイトは家電製品の販売だった。 家電の販売は、もちろん配達も伴う。 販売といい、配達といい、すべてそれまでにアルバイトでやってきたことである。 もちろん力もいるから、豊洲埠頭での荷物の積み下ろしで鍛えたことが、ここで役に立つことになる。 倉庫整理一つとってみても、トラックへの荷積みがかなり役に立っているのだ。 人生無駄なことは一つもない。 どこかで繋がっているものである。 毎年夏になると、アルバイトをやっていた頃を懐かしく思い出すのだが、最近はそういう思いを持って、過去を振り返っている。
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