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斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」
by オクノ総研
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■地球儀ソフトで遊びながら思った
僕には日本国民としての愛国心がほとんどない。
日本という国家への所属意識もない。
日本への愛着があるとすれば、食事と日本語くらいだ。
食事と言っても、和食ではない。
長期間海外に滞在すると、食べたくなる日本食は、「カレー」、「ラーメン」、「焼肉」、「牛丼」である。
「牛丼」に関しては、今では米国に行ったほうが、本物が食べられるけど。

愛国心のない僕にとって、日本という地理的な制約のなかで、特定の政治や宗教のシステムに組み込まれてしまう事は苦痛だ。
かと言って、僕が国籍を変えようと思うと実際には難しい。
10年くらい前、年間の3分の1くらいを日本国外で過ごしていた僕は、日本国籍を捨てようか、と画策していたことがある。
海外の単一の国に長期滞在しようとすると、ビザやら税金やら何かと面倒だったからである。
でも、よく検討してみると、日本のパスポートを保有している事はメリットのほうが大きいので、日本国民でありつづけることにした。
日本語しかマトモにしゃべれないし。

そして、日本国民であり続ける最大の理由は、日本が実態の曖昧なワケのわからないモヤモヤ国家であるからだ。
確固とした資本主義でもなく、社会主義でもない。
特定の宗教にも依存していない。
日本が日本でありつづけるのは、四方を海に囲まれているという地政学的特性によるものだと思う。
僕が日本国民でありつづけているのは、そのいい加減さが心地良いからである。
日本人は「神に誓って」などという表現を使わない。
仮に「神に誓って」と言う場合も、人によってその「神」の概念はバラバラである。

日本は、地政学的には隔離されているはずなのに、どういうわけかアイデンティティーを持たないミクスチャー国家になってしまった。
そして、そのアイデンティティーのぐちゃぐちゃさ加減は加速する一方である。

僕は、その日本国民としてのアイデンティティーのぐちゃぐちゃさ加減こそが、日本人の日本人であるところなのだと思う。
日本人が日本人である事を意識しないのは、海という「自然の国境」に守られた国で生まれ育ち、「人為的に作られた国境」を意識することが少ないからかも知れない。
「自然の国境」で隔たれているからこそ、逆に自分達のアイデンティティーを敢えて意識することがないのではないか、と思う。

テクノロジーの進化により、物理的、精神的に地球は狭くなった。
なかでもネットワークによる精神的な部分の障壁は、言語の問題くらいである。
日本人が日本人であることを意識するのは、サッカーのワールドカップくらいのものだろう。

いずれ世界の国々でも、日本と同じく、人為的に引かれた国境の意味は薄れていくだろう。
世界単一国家が生まれるのではない。
人為的に引かれた国境線はの持つ意味合いが小さくなる。
僕にとって、国という単位は、たまたま住んでいる地方自治体程度の意味しかない。

文化も宗教も民族もそれぞれ細々と残るだろう。
だけどそれが、地理的に分け隔てられ続けるものなのか?
地理的な国境線の意味合いは、どんどん薄れていく。
強制力で維持し続けられるのだろうか?
もちろん、行政単位として、世界単一国家、世界単一政治体制などは、あり得ないし、あってはならない。
主義や思想を単一化するような強制力が働いてはならない。
行政単位は「システムの運営の便宜上」、残らざるを得ない。
だけど、僕は個人単位思想や宗教、システムは、ぐちゃぐちゃのミクスチャーになるだろうし、なるべきだ、と思っている。
既存の様々なシステムや思想が個人単位で入り乱れたアナーキズム。
アナーキズムという言葉が適当でなければ、ミクスチャーでもコンプレックスでもモザイクでもいい。

システムも宗教も文化も本来は地理的にはアナーキズムであり、ミクスチャーであり、コンプレックスであり、モザイクなのだ。
地理的にも時間軸的にも。
時間軸でも同じ状態が、「干代に八干代にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで」続く、という事は難しいだろう。
流動し続ける。
たまたま生まれた場所で人のアイデンティティーは決まらない。

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03月27日(日)
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