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斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」
by オクノ総研
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■僕らはもう戻れない

僕は僕が僕で有りつづけるために、デジタルな脳とアナログな身体を切り離した。
アナログなギターを弾き、旧世代のバイクに乗る。
そこは、僕に残された数少ないスタンドアローン環境だ。
肉体を維持しつづけることの経済的価値は低下している。

僕はデジタル化される事に対する反抗として、ギターを弾き、バイクに乗る。
身体を忘れないために。
きっと僕の身体は経済的にみれば相対的価値は、ほとんどない。
ただの浪費だ。
でも、身体が経済的価値を失おうとも、僕は無駄なエネルギーを注ぎ込む。
それは、無駄な抵抗かもしれない。
僕がコンピュータやネットによって拡張される事に対するささやかな反抗。
身体の価値が低下していくなかで、無駄な抵抗を試みる。
これから数年のうちに、人類は新たな局面にさしかかる。
かつて経験をしたことの無い領域だ。
たぶん、多くの人は、それを受け入れ、順応していくだろう。
でも、その先にあるのは、身体の価値の喪失である。
「個」の消失である。
あと何年、僕らは「個」として存在しつづけていられるのだろう。
一足先に、「個」を失いかけた僕は、アナログ世界に逃げ込んだ。
急速に外部記憶やネットを通じた他者との記憶の共有、時間や距離を越えて自己の境界線が曖昧化していくことに対し、身体性をとりもどそうともがいている。

個人の脳が凡庸であっても、外部記憶や他者の脳を取り込むことにより、人は人を超える。
一方で「個」は喪失されていく。
「個」を維持しつづけることは難しい。
「個性」なんてものは、既に存在しない。
「個性」を押し付けられた子供たちは一様に同質化している。
個性を持たなきゃいけない、という脅迫観念は逆に同質化をもたらした。
個人の価値観ではなく、他者から押し付けられた価値観。
個性化というただの同質化。
同質化していくことはたやすい。
僕の目からすれば、個性的なワカモノは同質化しているようにしか見えない。
消費された存在だ。
本人たちは個性化のつもりでも、ただの同質化された存在でしかない。
同質化されたなかで、微妙な、ほんの少しの差異を個性と呼ぶ。
差異はどんどんと小さくなっていく。
ファッションやカルチャーだけではない、経済や政治も同質化していく。
世界は加速度的に同質化へと向かう。
海外の大都市に行ってみろ、日本と何ら変わらない。
外国人と会話しても何の違和感も持たない。
同じ音楽を聴き、同じ映画を見て、同じアニメを見て、同じ教育を受けて育っている。
異なるのは気候などの環境条件だけだ。

同質化は変化に弱い。
何らかの変化がおきたとき、同質化した集団は簡単に崩壊する。

僕は壊れた脳を持つ。
脳はこわれつつも、コンピュータやネットワークとの親和性により、外部記憶や他者との脳の連携に力を発揮する。
デジタルデバイドは大きな問題だ。
デジタルに適応できない人たちは、確実に人類の進化から取り残される。
だけど、一方で、デジタル環境に異常な親和性を持ちつつも、敢えて距離を置こうとする僕がいる。
僕にとって、身体性の喪失が最も恐い。
僕を良く知る(知ったつもりでいる人)の多くは、僕の顔すらしらない。
初対面で挨拶をすると、相手は僕のことを良くわかっているつもりでいる。
だけど、僕の顔を見るのははじめてなのだ。
身体は置き去りにされ、僕の精神だけがネットを駆け巡り、僕のイメージを作り上げている。
これでも僕は生身の身体を持った人間である。
脳はオープンソース化されているとはいえ、わずかながらの生身の身体を維持している。
人間ドックでオールA評価の身体。
だけど、僕の身体には既にそれほどの価値は認められていない。
コンサルタントとしての仕事は脳が全てだ。
ネットワークを超えて生きる僕の身体の価値は低い。
僕の生身の脳すら、外部記憶と他者の脳との共有化で成立している。

拡張された僕の身体は、どこまでがオリジナルなのだろう?
僕の脳は、情報を処理、編集することに特化している。

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07月19日(火)
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