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いぬぶし秀一の激辛活動日誌
by いぬぶし秀一
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■一年間ありがとう!皇紀2675年が暮れ行く
いや〜平成24年末からジェットコースターのような3年間だった。ご存じない方のために、ざくっと振り返っておこう。
平成24年10月、たちあがれ日本所属の唯一の区議会議員として4期目の途中だった私は、園田博之衆議院議員の会館事務室に呼ばれた。
「いぬぶし君、石原慎太郎先生が新党を作る。ついては、衆議院議員に立候補してくれ」
ええ〜???続いて園田氏から「受けてくれるな!」とダメ押しが。その迫力と、突然のことに思わず「はい!」と応えてしまった。
そして、太陽の党の結党と同時に衆議院東京4区(大田区)の公認予定候補として発表だれた、のもつかの間、4日後に太陽の党は、日本維新の会へ合流してしまった。(太陽の党は制度上は存続した)
日本維新の会でも当然公認候補になると思っていたが、みんなの党との選挙協力の関係で、すでに東京4区にみんなの党は公認候補を擁立していたので、こじれてしまった。みんなの党の候補者あkらは電話で「犬伏さん都議会にまわってくれ。そしたら応援するから」と懇願されたが「党同士で話してくれ」と拒否。
結果、選挙の2週間目になって日本維新の会公認が決定した。そして、選挙結果は、自民党についで次点(44,999票)。民主の現職を落とし、みんなの党の候補にも勝ったが、比例名簿4位のため、比例復活もなかった。
さてさて次の戦いに向けて準備をと思っていると、園田先生より「都議選に出ないか?」と打診があった。熟慮したが、支援者からも「バッチをつけろ」との要請もあり、日本維新の会の都議公認審査を受けることになった。
大田区の都議の定員は8名。維新本部の意向で2名の公認を決定することになった。公認に手をあげたのは、民主党を離党した柳瀬都議と、なんと私の衆議院選挙を支援して頂いた、永井自民党元区議と私だった。
柳瀬氏は維新の会東京都連の公認審査担当者でもあり、同じ選挙区にいぬぶしが出るのは票を割ると判断されたのか「いぬぶしさんは、やはり国政ですよ」と、大阪勢を説得して、勝つ可能性が低い永井氏が公認となった。結果、柳瀬氏がギリギリ当選。永井氏は1万票にも足りず落選となった。
さて、都議選公認がなくなった春。中山恭子参議院議員にランチに誘われた。「いぬぶしさん、衆議院は残念でした。私の参議院選挙手伝ってくださらないかしら」昼食を食べながら、あの優しい声で話された。
実は、落選後すぐに(その深夜に)ある自民党参議院議員からメールがあり「公設秘書になって欲しい」とお誘いを受けた。1週間考えさせていただきお断りした。さすがに、「自民党政治を変える」と衆議院に立候補して落選したら、自民党秘書、これはない。私の身を案じていただいての配慮には涙が出る程ありがたかったが、お断りした。
今回は、同じ党の重鎮、中山恭子参議院議員からの申し出であり、お断りする理由もない。数日後、わざわざ来訪された中山事務所秘書さんに「お受けします」とお答えした。
そして、平成25年4月から公設第一秘書として、全国比例の参議院選挙の準備に入った。中山事務所は伝統的に秘書さんは、官僚または準官僚、国家公務員の退職者で占めていた。そこにDNAの違う私が選挙対策で入ったものだから、当初は葛藤もあったが、8月の参議院選挙に向かい一丸となってつきすすみ30万を超える支持で、中山恭子参議院議員の再選を果たし、任務終了。
選挙の後始末を終え、後任者を推挙して11月初旬に公設秘書の職を辞した。この間、地元を守ってくれた妻や秘書さんには、大変な苦労をかけてしまい、いまでも感謝、感謝である。特に秘書さんは、朝参議院議員会館に出勤したら、いつ帰れるのか、電話連絡もつかない状態で、さんざんな目にあわせてしまった。今思うと、よくぞ辞めないでくれたと思う。
さあ、これで地元に戻って政治活動だ、と年末の地元をまわっていると、自衛隊OBから電話があった。「田母神俊雄元航空幕僚長が都知事選に出るから手伝え」と。
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12月31日(木)
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