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いぬぶし秀一の激辛活動日誌
by いぬぶし秀一
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■拝啓 小沢民主党代表 (産経新聞社 正論10月号より)
 小さな政党ゆえ、私のような区議候補者であっても、国会議員と親しく話しが出来、また、身近に感じながら国家について議論が出来る、アットホームな新生党の環境は、とても気にいっていました。経世会時代から継続されている初秋の箱根研修会も楽しい行事でした。党所属の国会議員、地方議員、支持者が3日間、外出禁止の研修所で、政策研修をし、酒を酌みかわし、スポーツに汗を流す、という盛りだくさんの研修会でした。そこで出会った多くの若者が、今では民主党の国会議員として活躍されている姿を見ると、感慨深いものがあります。きっと、大政党になってしまったので、もう開催されていないのでしょうね。 
 
 ある年のスポーツ大会では、飛び入りのあなたと卓球に興じている私の写真が全国紙に掲載され、他の研修生から羨ましがられたものです。研修講座での、選挙の鬼を自称されるあなたの必勝法は、ノンビリムードの研修生には、大きな喝として響きわたりました。「おまえさんたちは、もっと地元、選挙区に入り込んでいかなければダメだ。私は、今でこそ行かないが、選挙区の誰の孫がどうした、あそこの婆さんは今どうしている等、すべて知っていた。国会を目指すなら戸別訪問3万件、辻説法5万回」と。私は、あなたの話を聞けば聞くほど、そして、お会いすればお会いするほど、小沢一郎という稀有な政治家に傾注していきました。この人についていけば、日本を変えることが出来る、青臭いかもしれませんが、当時30歳代初めの私は、本気でそう信じていました。

■新生党から新進党、自由党結党へ
         政治の師だった小沢氏

 ところが、平成6年12月新生党は解党され、公明党衆議院議員(参議院と地方議員は除く)と大同合併をはたし、新進党となったのです。私たちが、必死の思いで「新生党」の名刺を配り、ポスターを貼りまくったのは何だったのだろう、といささか不満も覚えましたが、政権奪取、国を変えるのだ、という思いもありました。「創価学会と合併するのか!」と街で言われながらも、旧公明党代議士が試験官となった「新進党公認審査」を受け、12月10日、横浜で挙行された「新進党結党大会」は、そのハデな演出と、力強い結党宣言に、体が武者震いしたのを鮮明に覚えています。会場周辺には、政権政党が派遣したであろう多くの街宣車が、大音量で妨害を繰り返していましたが、それすらも「新しい日本」の門出のBGMに聞こえたものでした。あの時壇上にいらしたあなたは、本当に輝いて見え、私は、あなたがきっと総理大臣になり、日本が変わるのだ、と確信したのです。
 
 翌年の区議会議員選挙では、新進党候補4名のうち、私を含む3名が落選し、辛うじて松原都議の秘書だけが当選をいたしました。ちなみに、新進党に合流しなかった公明の区議候補は全員当選。にわか作りの政党の悲哀と、自らの選挙戦法の甘さに、立ち上がれない程のショックを味わいました。
 
 その後、しばらくはあなたのことは忘れ、もっと政治について学ぼうと、大前研一氏が主宰する「一新塾」の門を叩き、彼の提唱する「平成維新」を学びました。しかし、この塾で、大前イズムを学べば学ぶほど、あなたが提唱された「日本改造計画」と類似していることに気づきました。また、残念ながら大前氏の評論家的運動にも限界を感じたのです。そんな時、将来新進党への合流を予定していた、旧公明党の参議院議員と地方議員の政党「公明」が、合流せず、新進党に参加していた旧公明党衆議院議員とともに新公明党を、旧民社系議員も新党を結党するとのことが伝わってまいりました。
 
 この頃は、あなたや新進党から距離をおいていましたから、具体的な事情はよく知りませんが、どちらかと言えば好感を持って、このニュースを聞いたのを覚えています。そして、このことを契機に新進党は分党されていったのです。ときは、平成9年の年末だったでしょうか。翌10年には、自由党が結党され、あなたが党首に就任をされました。いかにも、すぐ解散しそうな浮いた名前の新党が乱立した当時、自由党という歴史ある名前の政党の誕生に、今一度、あなたが総理大臣になる夢を抱いたのは私だけではなかったはずです。
 

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11月08日(木)
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