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脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
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■ 何も知らなかった…舞鶴引揚記念館の衝撃
日星高校への講演を終え、一夜明けた土曜日、前夜牡蠣シャワーを降らせてくれた竹内万里子教頭先生と去年の講演とワークショップのときの窓口だった佐藤絵理先生に舞鶴を案内していただいた。

三度目にして初めての訪問となる舞鶴引揚記念館は、リニューアル工事中のため赤れんがパークで展示中。展示物はかなり絞られていると思われるが、ボランティアガイドの方にじっくりお話をうかがいながら、2時間かけて見せていただいた。

「マイナス20度で、バナナで釘が打てます。それよりも寒いなかで労働を強いられたんです」
肉声の説明からはパネルの説明を読むだけでは伝わらない熱(熱さだけでなく冷たさも)が伝わってくる。怒りも、やるせなさも、語り継がねばならないという使命感も、声にのせられて、こちらにずしんと響く。

戦後13年間に66万4531人の引揚者と1万6269柱の遺骨を受け入れた舞鶴。日本全国での引揚者は600万人を超え、大陸からソ連に送られシベリアなどで抑留を強いられた日本人が約47万2千人いたという。

把握できた数字がこれであって、実際には、さらに多かったかもしれない。

日本の歴史始まって以来の民族大移動と呼べるような出来事。捕虜といいつつ奴隷のように扱われた抑留生活。これらのことをわたしは歴史の授業で習ったのに記憶から抜け落ちているのだろうか。それとも習っていないのだろうか。初めて見聞きするような事実の連続で、知らなさすぎた歴史に愕然となった。

抑留兵が日本の家族にあてた手紙の改行が不自然だなと思ったら、原文は「監視するソ連側が検閲できるように」とカタカナで書かれていた。検閲されるから愚痴も弱音もこぼせない。「すぐに返事をください」と綴られてはいるが、「日本に着くのに一年半かかったそうです」とガイドさん。返事が来るまでの毎日がどれほど長かったことか。果たしてこのハガキの送り主は返事を受け取れたのだろうか。そして祖国の土を踏めたのだろうか。

何十万という数字の一人一人にもう一度会いたい家族がいて、日本に帰ってかなえたい夢があった。「もう一度」が「もう二度と」になってしまった人がどれだけいただろう。苦役の後に日本に帰れた人たちも、人生の貴重な何年かを奪われてしまった。ミサイルや銃を放ち合うだけが戦争の恐ろしさ愚かさではない。一人一人の時間や愛するものを奪い、才能を埋もれさせ、尊厳を踏みにじる、それもまた戦争の残酷さなのだと重いため息をついた。

「舞鶴への生還 1945−1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」は「東寺百合文書」と並んで2015年のユネスコの世界記憶遺産候補として日本から推薦されている。世界記憶遺産にはベートーベンの「交響曲第9番」の自筆楽譜やアンネの日記などがあり、日本からは山本作兵衛炭鉱記録画、御堂関白記、慶長遣欧使節関係資料がある。舞鶴への引き揚げ記録が世界記録として刻まれることで、引揚の歴史全体にも光が当たることに期待したい。

シベリア抑留の壮絶さと並んで、引揚の過酷さにも胸を衝かれた。やっと祖国へ帰れると思っても、引揚船に乗り込む前に、引揚船が日本に着く前に、命を落とした人が少なからずいた。船の中で息絶えた幼い少女に、乗り合わせた女性が持っていた口紅を塗ってあげた話が印象に残った。少女はおしゃれも恋も覚える前に短い命を閉じた。口紅を差し出した女性は、その後、おしゃれを楽しめただろうか。平和というのは、口紅を引いて、食事や買い物やデートに出かける自由があることで、それを奪うのも戦争なのだ。

何度も足を止め、目を留め、息をのむ瞬間があり、そのなかで思わず書き留めたのが「引揚者を迎えるに際して」と題した市民向けの回覧文だった。


《敗戦後厳寒のシベリヤで四星霜「倒れちゃならない祖国の土に辿りつくまでその日まで」と悲痛な想を胸に祖国を案じ懐しの父母妻子兄弟を想って凡ゆる苦難に堪へて帰って来られる同胞を心から温かく迎へませう》と始まるその文書は、「四星霜」とあるように、引揚が始まって四年が経とうとしている昭和24年6月23日付で当時の舞鶴市長・柳田秀一氏が発信したもの。


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02月23日(月)
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