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脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
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■ 教師失格から時はめぐって…堺・教師ゆめ塾講演
大阪・堺で2日にわたって、講演3つ。
1つめは、堺・教師ゆめ塾の塾生に向けて、授業づくりの講義。

堺・教師ゆめ塾というのは、教師をめざす人たちを対象にしたセミナーで、塾生は半年間にわたり、自分の時間と身銭を切って学びに来る。

教師は、わたしの夢のひとつでもあった。
高校の数学教師の父と、小学校の音楽教師の母を持ち、教育学部に進み、母校の三国丘高校の教育実習にも行った。

その教育実習で受け持ったクラスが、文化祭で『オズの魔法使い』をやることになっていたのだけど、まとまらず、上演が危ぶまれていた。奇しくも自分が高校時代に同じ劇で大成功をおさめたわたしは、演出を買って出て、「ミュージカルにしよう!」と振付けもやり、朝練昼練放課後練習に燃えた。

劇は大成功、舞台の上の晴れやかな生徒たちを見て、ビデオを撮っていたわたしが泣き崩れた。校庭の一角で、生徒たちはわたしを囲み、用意していた花束を差し出した。打ち上げにも呼んでもらえた。

今思い出しても、「青春」だった。

しかし、わたしがやるべきは演劇指導ではなく、英語の授業だった。そちらは予習復習もままならず、black warship(黒船)をblack worshipと勘違いして「黒人崇拝」と誤訳し、生徒に指摘された。

「君は教師には向いていない。君は生徒よりも楽しんでしまうから」
指導教官の的確な一言で、わたしは教師にはならず、広告代理店のコピーライターになり、その後、脚本家になった……そんな身の上話から、話をはじめた。

脚本家になったきっかけは、月刊公募ガイドに連載されていた新井一先生の脚本講座。腕試しに応募したころ、新井先生から直筆のコメントが返ってきて、「面白い発想ですね」と書かれていて、舞い上がった。

自分には才能があると思い込んだ勢いでコンクールに応募するようになったのだが、新井先生が亡くなったことを告げる公募ガイドに、「送られてきたすべての作品にコメントを返していた」とあり、勘違いを思い知った。

と同時に先生の懐の大きさに打ちのめされた。亡くなる前の体調も思わしくない頃、見ず知らずのわたしの腕試しに、本気で向き合ってくださった、この先生が、わたしの脚本の恩師だ。恩師が差し出してくれたものに応えられる脚本を書こうと誓った。

それから運と縁に恵まれてデビューを果たし、しばらくした頃、部屋の隅から新井先生のコメント入り原稿を発掘したわたしは、「面白い発想ですね」の横にある記号に気づいた。よく見ると、それは「B」と書かれてあった。


思い込みが激しく、自分に都合のいいように世の中を見てしまうわたしは、「B」を見落とし、それゆえ突っ走れたのだった。だから、自分を信じる力とチャンスがあれば、誰でも脚本家になれる、と思っている。

思い込みのほかに、わたしが人より勝っているのは「空想」すること。脚本映画デビュー作『パコダテ』人も、はこだて→ぱこだて→おまけ→しっぽ、という連想ゲームから生まれた。

宝石なんか転がっていない。どこにでもある石ころを拾って、磨いて、自分で光らせるしかない。どの石ころを拾うか、石ころのどこをどう磨くか、そこに作り手の「個性」が出てくる……ということを映画『子ぎつねヘレン』と朝ドラ「てっぱん」を例に話した。


ネタの引き出しを豊かにするコツに続いて、昨年、母校・堺市立三原台中学校で行った「中学生のドラマ脚本会議」の話を。学校の授業はどうしても一つの正解に向かって絞り込む思考回路になりがちだけれど、脚本開発では、人が考えないようなこと、人より面白いことを考えたもん勝ち。

そして、枠をはみ出すことにかけては、子どもは大人よりずっとしなやか。「なんで?」「そんで?」と導けば、どんどん面白い発想を引き出せる。




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04月20日(土)
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