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脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
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■ ニュープリントで『むかしの歌』(1939年製作)
一昨日『絹代の初戀』を観た「昭和の原風景」特集を上映中の神保町シアターへ再び足を運び、石田民三監督の『むかしの歌』を観る。映画と鉄道を愛するご近所仲間のT氏がこの映画特集のチラシを送ってくれたのだが、添えられたポストイットに「なんと、あの『むかしの歌』を観られる! しかもニュープリントで!」という興奮した走り書きがあった。あの『むかしの歌』と言われましても……と同じくT氏より課題図書として進呈された『シネマ大吟醸』(「魅惑のニッポン古典映画たち」と副題)を紐解く。著者の太田和彦氏が紹介作品のおすすめ度を銚子2本の「大吟醸」、1本の「吟醸」、無印の3段階で表しているのだが、『むかしの歌』には銚子2本のお墨付き。「これほど深々と日本的情感を端麗に描いた映画はなかった」と大絶賛。ならばいただいちゃいましょう、大吟醸。

さすがニュープリント! 一昨日の雨ザーザー(>>>2009年04月14日(火) シネマ大吟醸!神保町シアターで『絹代の初戀』)とは大違いの美しさ。ところでニュープリントとは、映画のネガフィルムから新たに上映用フィルムを現像すること。焼き直しというとリメイクみたいなので焼き増しといったほうがいいだろうか。半年ほど前、松竹のプロデューサーの榎望氏に「映画の0号、初号ってどういうことか、ちゃんと教えてください」と問い合わせ、「そんなことも知らなかったの?」と呆れられながら説明してもらったのだが、「完成して、このネガでいいねってのを焼いたのが初号」「初号に至る前にいったん焼いたのを手直しするので、それが0号と呼ばれる」ことを知った。「じゃあ2号、3号……と何号まであるんですか?」と聞いたら、「初号からさらに直したら2号になる」「オッケーとなった初号の原板をもとに上映用のフィルムを焼く。写真の現像と同じ。子ぎつねヘレンみたいに250館なら250本焼くけど、それをいちいち250号のようには呼ばない」とのことだった。というわけで、時が経って上映用フィルムが劣化した作品をニュープリントで観られるのは、映画におけるアンチエイジングのようなもの? でも、ネガフィルムは時を経ても劣化しないのだろうか。

『むかしの歌』は1939年制作。オープニングで年号が出なかった気がする。ちなみに一昨日『絹代の戀』(1940年製作)でわたしが観たと記憶した「1947」は見間違いではなく、昨日観に行ったT氏が確認。「戦後再上映したときの年号では」とのこと。スタッフロールでは「監督」ではなく「演出 石田民三」。「演出助手」に市川崑の名があるが、今なら「助監督」なのだろう。キャストは「配役」。『絹代の戀』の「役と人」のほうが古風な表現に感じる。

せっかくのニュープリントだというのにメガネを忘れてきたので、ただでさえ暗い白黒の画面がぼんやりとにじんで水墨画のよう。アップでないと表情がわからないという困った事態になったが、それも慣れてくると空白を埋めながら観るようになった。

舞台も1939年頃だと思って観ていたら「西郷さん」が出て来たりして面食らう。設定は明治10年。こうなると、映る町の風景はノスタルジーを感じるよりも時代劇となるが、大阪弁の軽妙なやりとりは古さを感じさせず、むしろ70年前とは思えないほど新鮮。原作・脚本の森本薫氏について調べてみると、『女の一生』『華々しき一族』(※『華麗なる一族』とは別物)などの代表作がある劇作家、演出家、翻訳家。京都帝国大学文学部を1937年に卒業する前から作品を発表しており、早くから才能を花開かせたが、肺結核のため34歳で亡くなっている。

親が言い出した許嫁という勝ち気な船問屋の娘・お澪(花井蘭子)と油問屋の珊次(藤尾純)の関係が面白い。お澪に振り回され、困った顔しながらもうれしそうな珊次。だけどなぜか情けないヤツに見えない。下着は自分で洗うような一本筋の通ったところがあるせいか。あるいは、お澪をありのままに受け入れている懐の大きさのせいか。自分が何を言っても耳を貸さず、一人で決めてしまうお澪の性格をわかって見守っている。手を離したら飛んで行きそうな風船の紐の端を握ってやり、お澪を安心して飛び回らせているようなところ(女にとっては、これはラク!)が、好ましい。


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04月16日(木)
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