ID:93827
脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
[786047hit]

■ 何も知らなかった…舞鶴引揚記念館の衝撃
市も財政は苦しいができる限りのことをしたいとし、同胞を温かく迎える事はお茶の接待や打上花火ではなく、心が伝わらなくてはならない、と文書は続く。そして、引揚者を見かけたら《海上であつても道路上であつても或は田畑で耕作をして居られる時でも手を振りハンカチを振り帽子を振って頂く事が一番同胞を喜ばせることであります》と説く。

《殊に引揚は第一船のみで終るものではありませんから第一船は華々しく迎へたが後になるほど寂しくなる様では意義がありません》とあるのは、昭和20年10月の第一船入港時の熱がさめ、市民に迎え疲れが出た頃だったのかもしれない。

この回覧が出された翌昭和25年、舞鶴は全国で唯一の引揚港となった。それから昭和33年9月7日の最終船まで足掛け13年、手を振りハンカチを振り帽子を振り続けた人が舞鶴にはいた。祖国への想いを募らせた人たちにとって、どれだけ心強いお帰りなさいだったことか。

一昨年から三年続けて舞鶴を訪ね、そのたびに「よく来てくれました」と温かく心地よく迎えられ、また舞鶴に来たいと思いながら東京に戻るのだけど、今日引揚記念館を見て、舞鶴の人たちには外の人を迎え入れることに、いい意味で抵抗がなく自然にふるまえるのかもしれないと思った。

竹内教頭先生と佐藤先生に自衛隊の護衛艦まで案内していただき(三艘分の距離を往復する間にじりじりと日焼けしそうな距離があった)、その後、再び赤レンガ倉庫に戻ってJAZZというお店で肉じゃが丼をいただいた。舞鶴は肉じゃが発症の地でもあるらしい。

お二人と別れ、舞鶴に来るたびに訪ねている喫茶ゆめさらに着くと、店主米澤典子さんのお友達で前回舞鶴を案内してくださった田丸のおじさま83歳がお待ちかね。「あんたこれ好きやろ」とおみやげにクリームあんみつを持ち込んでくださっていた。引き揚げ記念館のことを話すと、「市長やっ柳田さんは、もともと開業医やったんや」と教えてくださった。田丸さんのお父様も診てもらったことがあるとか。お医者様ゆえだろうか、あれだけ血が通った公文書はなかなかお目にかかれない。「社会党の国会対策委員長を務めはった名士やで」とのことらしい。

田丸さんも寄稿した舞鶴の戦争体験集を読ませていただいた。終戦当時13歳で国鉄に就職した田丸さんは、戦争で勉強できなかったことが何より悔しく、国鉄の昇進試験に手を焼いたという。思う存分勉強ができて、会いたい人に会えて、あんみつも食べられる平和をかみしめた。

帰りの新幹線では舞鶴引揚記念館の図録「母なる港 舞鶴」を広げ、戦争が奪ったたくさんの人々の取り返しのつかないものに想いを馳せて、東京に戻った。
>>>今日の日記をTweetする

02月23日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る