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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 英対話 〜 門脇 邦夫とその意見 〜
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710901
 
 四年前、T君の紹介で、さるアメリカ婦人を奈良に案内したことがあ
る。T君を有能な同時通訳とすれば、私は英語のできない運転手が役ど
ころである。
 デボラ・カーに似た美貌の中年女性は、実は三度も結婚して、目下は
独身とのことだった。T君は親しいせいもあって、かなり率直にたずね
たりする。
 「お子さんは生れなかったのですか」
 「まさにモダン・サイエンスの奇蹟ね」
 彼女のたえざるウィットに富んだ応答で、その日はすばらしい道中と
なった。一行三人が車を降りて寺院に向かうころ、突如の雷鳴一閃とた
ちまちの雨、そして一転するや真紅の夕陽があらわれるにおよんで、彼
女は思わず叫んだものだ。
 「まるで、自然の展覧会だわ!」
 T君も私も、彼女の詩的発想に、すっかり感心してしまった。これこ
そ英語的な、英語ならではの表現ではないか、と思われた。
 T君の紹介で、門脇邦夫氏に会ったのは、二年前の春である。当時
《毎日英語教室》の主任講師であった彼と、さしたる話題もないまま、
名刺だけ交換して、その日はすんだ。
 数日後に、二度も彼の名刺が役立った。
 まず、音楽評論家の出谷啓氏から、だれか通訳を知らないか、と電話
がかかってきた。来日中の指揮者、ズービン・メータのインタビューを
採るとかで、かなり急いでいるらしい。私は念をおした。
 「彼はインド生れだというが、貴兄の必要とするのは何語の通訳であ
るか」
 「ウィーン育ちの音楽家ゆえにドイツ語もできるらしい。しかし諸般
の事情からみて、ボクは英語の通訳を望みたい」すぐさま私は門脇氏に
ダイアルしたところ、
 「私はその日、予定もあるし、音楽に知識のあるだれかを代りに探し
てみましょう」といってくれた。彼の適確な手配によって、ある女性が
選ばれ、出谷氏のインタビューは、無事成功した。
 この場合、インド語あるいはドイツ語の通訳であっても、やはり彼に
頼ったにちがいなく、後日、門脇氏によれば、
 「対手がニヶ国語を話す可能性は意外に多いんです。どんな場合でも
絶望してはいけませんね」とのことだった。
 つづいての事態は、全国楽器協会の展示会場で生じた。バイヤーとお
ぼしき外国紳士があらわれたため関係者が、居あわせた私をとらえて、
いますぐ何とかならないか、という次第だった。
 こんどは、門脇氏自身が不在で、しかも寸刻をあらそうので、私は思
いだせるかぎりの友人知人を当ってみたが、平日の白昼とあっては、即
刻ただちに来てくれる通訳は、さすがにいない。どんな場合にも、絶望
してはいけない、と彼はいったが、この際だれかが絶望しなくてはなる
まい、と省りみるうち、ひとつの冒険的なアイデアが浮んだ。
 さる英会話教室に通っているというN君を思いだし、
 「君以外に、この場の救い主はいない」と説得して、むりやり来ても
らった。すでに約四十分経過していたが、
 「ぼくには、とても無理ですよ」と連発するN君をなだめて、根気よ
く待っていた、くだんの外国紳士に押しつけてしまった。
 ずいぶん無茶なことをやってしまったが、
 「思ったより簡単でした」とN君が戻ってきた時には、関係者ともど
も、ほっとした。
 「私が留守でさえなかったらね」と、後日門脇氏も笑っていった。
 「N君は、たしかうちの教室の生徒でしたね。緊急の場合には、おそ
らく実力以上のことが可能だ、という例でしょう」
 彼自身は英語のほかに、ドイツ語の心得があるものの、たとえば8ヶ
月余の海外ひとり旅に先だって、あの広大なソビエト連邦を、たった一
冊のテキストだけで横断したそうである。
 「ちゃんと行先を告げて、地下鉄の切符も買ったし、乗ってしまえば、
あとは降りるだけです。この程度のことだけなら、テキストも要らなか
ったくらいですね」
 「しかし、それじゃつまらないでしょう」
 「もちろん、つまらない。つぎの段階で必要なのがホテルとレストラ
ンでの会話です」
 「黙ってメニューを指さす、というのはどうです」

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09月01日(水)
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