ID:87518
与太郎文庫
by 与太郎
[1062032hit]

■ 柳田文庫 〜 木綿以前の事 〜
く、かつて人々と集まって飲んだ味が忘れられなくて、何の祝賀でも記
念でもなく、また嬉しくも悲しくもない日にも、飲みたくなるような習
癖を生じたからで、一つにはまた買おうと思えば夜中にも、すぐに入用
の量が得られるような、便利な世の中になったためでもある。神代の昔
から、酒と名のつくものが日本に有ったからと言って、昔の人たちもこ
の通りに、女房の承認のもとにちょっとばかりの酒を、毎晩飲んでいた
と思うと大まちがいである。
 
 五
 
 証拠を挙げることはやや困難になったが、中世以前の酒は今よりもず
っとまずかったものと私たちは思っている。それを飲む目的は味よりも
主として酔うため、むつかしい語で言うと、酒のもたらす異常心理を経
験したいためで、神々にもこれをささげ、その氏子も一同でこれを飲ん
だのは、つまりはこの陶然たる心境を共同にしたい望みからであった。
今でも新しい人たちの交際に、飲んで一度は酔い狂ったうえでないと、
心を許して談り合うことができぬような感じが、まだ相応に強く残って
いるのもその痕跡で、つまり我々はこの古風な感覚の片割れをもったま
まで、今日の新文化へ入ってきているのである。酒の濫用ということが
もし有りとすれば、現在の過渡期が特にその弊害の起こりやすい時だと
言い得る。すなわち我々は一方には古い名と約束に囚われつつ、他方に
は新しい交通経済の実情に押しまわされて、その中間の最も自分に都合
のまい部分を流れているのである。両者新旧の関係は改めて静かに反省
してみなければならぬと思う。
 今度の大事変が起こってから、不思議に日本人の研究心と、発明力と
は大飛躍をした。是までかつて考えなかった有形無形の問題が注意せら
れ、着々と新たな方策が立てられたことは、時過ぎて回顧すればいよい
よ鮮明に、国民の智能の卓越していることを証拠立てることと思う。今
まで同胞がうっかりと看過していたことを、問題にして見るのには今ほ
どの好時期はない。独り歴史の学問だけが、いつまでも古い知識と元の
方法とに、止まっていてよろしいという理由は有り得ない。我々は酒を
飲む習慣の利弊に関しても、是非とも今と昔との事情の変化を知って、
現在の状態が果して国の福祉と合致するか否かを、明らかに認識し得る
ようにしなければならぬ。それを各人が自由に判断するだけの歴史知識
が、現在はまだ具わっておらぬとすれば、少なくとも求めたら得られる
程度に、歴史の学問を推し進めなければならぬ。いつも民間の論議に掃
蕩せられつつ、何らの自信も無く、可否を明弁することすらもできない
のは、権能ある指導者の恥辱だと思う。
── 柳田 国男《木綿以前の事 19790216 岩波文庫》P139-147
 
(20081121)
 

02月16日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る