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与太郎文庫
by 与太郎
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■ リルケとピカソ 〜 To go, or not to go. 〜
ようである。それは謂わば絵を書く時の無心な態度、美を造り出そうと
いう事を意識しない態度が子供のそれと共通なのだからであろう。子供
の絵はしばしば我々の心を打つが、それは彼等の絵が無理に絵を作ろう
として画かれたものでない事、すなわち美を作り出そうという意識を持
たずに感動が直接に表現されている事によるのである。またその結果と
しての何物にも囚われない自由さが我々を感動させるのである。いずれ
にせよピカソの絵には子供の絵のようなのびのびした自由な感じがある
事は確かである。
私は今「春」というごく最近の絵を見ながらこの文を書いている。そ
の中の一匹の山羊を見ている。いや山羊ではなくて一角獣のつもりなの
かもしれない。しかしピカソが画いているのは山羊でも一角獣でもない
のである。唯彼の内部にある自由なフォルムが画かれているのである。
そのフォルムはピカソの感動それ自身であり、ピカソの溢れる生命力そ
れ自身なのである。精神という死んだ殻から解放された生命力の躍動が
自由なフォルムとなって表われてくるのである。あの「ゲルニカ」の化
物達は死んだ化物ではない。化物達の眼や口や四肢がそれぞれ一個の生
命を持ってその生命力で暴れ回っているのである。しかしその生命力と
は単なる生ではない。死の深淵を覗き込んだ者が始めて知り得る、何も
のにも限定されない、死を恐れない、本質的に自由な生命なのである。
死んだ観念や意識では捕える事が出来ない生命なのである。彼と同じよ
うにやはり死の深淵を見た詩人リルケは
「見よわたしは生きている、何によってか、幼時も未来も減じはせぬ
……。みなぎる今の存在が、わたしの心情のうちにあふれ出る」
(ドウイノ悲歌)と歌っているが、このみなぎる今の存在、うちあふれ
出る心情こそはピカソの持つ生命であろう。 (1958・9・1)
── 《山脈・第十六号 19581010 同志社高校文芸部》
Picasso, Pablo 18811025 Spain 19730408 91 /〜《Gernica,1937》
Rilke, Rainer Maria 18751204 Plaha 19261229 51 /〜《Duineser Elegien,1923》《Auguste Rodin,1903》
── 夜の最も静かな時刻に、「私は詩を書かなければならないか」と
深く自己自身にたずね、「私は書かなければならないのだ」という力強
い一語のみかえってくるなら、あなたはその必然に従って生涯をつらぬ
きとおしなさい。 ── リルケ《若き詩人への手紙 19030217 》
── 《世界の古典名著・総解説 19931130 自由国民社》P440
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1422174.html (No.1)
── 現代芸術は、それぞれつぎの作品によって、役割を終えています。
文学:プルースト《失われた時を求めて》&ジョイス《ユリシーズ》
音楽:ワグナー《神々の黄昏》&ストラヴィンスキー《春の祭典》
絵画:ピカソ《ゲルニカ》&モンドリアン《リンゴの樹》
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2730553.html (No.5)
未来芸術論 〜 仲介者の退場 〜
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4689800.html (No.10)
自分との対話 〜 わが心を覗きこむとき 〜
模写 & Report 空間の次元
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19591017
ピカソ《葡萄とギター》
(2001-20090815)
09月01日(月)
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