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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 幻の《弦楽技法》 〜 未投函書簡より 〜
ような順序にしたのではないか、と考えはじめた。
そうか、わかったぞ。この男のねらいはやはりそこにあったのだ。
存分に期待させられて、ついに《コリオラン》が始まった。
息つくひまもなく、チェロの重々しいアルペジオが、譜面そのままの
イメージで地鳴りのように聞えてくるではないか。そうだ、これだ!
なぜ今まで、この曲はこのように演奏されなかったのか。このように
演奏されたとしても、録音再生の技術が、すくなくともこの曲に限って、
いまの安物のテレビにも及ばなかったのだろうか。いや、そうではない
はずだ。前述のオイストラフのフィルム(ビデオではない)のように、
録音状況にかかわらず名演奏は伝わるのだから、いままでの指揮者は、
この曲を甘くみていたのではないか。さらに推測すれば、チェロ奏者が
この曲の演奏効果を甘くみていたのではないか。まるで練習曲の一部の
ように、漫然と奏していたのではないか。
高校時代のボクは、いいかげんな指揮者だったが、いわゆるリズム感
というものには疑問をもっていた(要するにリズム音痴だったのだ)。
しかし、わがオーケストラの、とくに金管楽器奏者に対して、いつも
「腰をおろすな、ドッコイショはいかん!」といっていた。休止符は、
「ヤレヤレ」と腰をおろす時間ではない、つぎのパッセージを予告する
瞬間なのだ、という意味である。
ここにいたって、きみの本が伝える近衛秀麿氏の話につながる。
氏の独創したという《運命》冒頭のフェルマータ問題である。
氏は、いつも長さが同じであるべきだ、という理由で、フェルマータ
に時間を定めたという。こうすれば、コンサート・マスターをはじめ、
皆が指揮者のその日の気分に惑わされることなく、自信をもってつぎの
パッセージに入ることができる、という。
ボクは、どうも理屈がわからない。これが凡百の凡曲ならいいとして、
西欧古典音楽を代表する傑作であり、無難に済めばよい、という曲では
ないのである。チィチィパッパではないのである。安全第一ではないの
である。危険を承知で、不条理に立ちむかうのが、基本姿勢である。
フェルマータの長さが一定でないからこそ、緊迫感が生じるのである。
高校時代のボクが、とくに先輩連中から陰口をたたかれていたのは、
棒が見にくい(リズムが不明確)ということであり、後輩たちの不満は
いつ始まるか(その瞬間まで)わからない、というものだった。
さすがに、デビュー直前に聞かされたときには、心底まいったものの、
けっして曲げることはしなかった。棒にあわせて拍子をとるのではない、
音楽それ自身のおもむくままに、全員が(聴衆とともに)一体となって
進むべきであり、いつ始まるか聴衆にバレてはいけない、というような
ことが信念だった。
ついでにいうと、音楽を聴くときに、いっしょに身体を動かすような
聴衆はまやかしの連中である。ダンス・ミュージックをやってるわけで
はない、西欧古典音楽は聴衆を楽しませるためにあるのではない。
曲が終わったら、なにがなんでも一番に「ブラボー!」と叫ぶ輩め!
しかるに最近は、どこのオーケストラも、まるで銀行員とか市役所の
小役人みたいな顔つきの楽員ばかりで、どいつもこいつも楽譜どおりに
演奏していればクビにならないつもりでいるのではないか。
わかい指揮者もそうだ、みんなが小澤征爾をお手本にして、やたらに
身をくねらせやがる。いいかげんしろ! 演奏中にニタニタ笑うヤツも
いるから困ったものだ。なんのつもりか。(未完)
幻の《弦楽技法》 〜 新井 正夫氏あての未投函書簡より 〜
そもそもの動機は、《弦楽技法》という題名の、大切にするあまり、
後輩たちに「ぜひ読みたまえ」と貸しつづけたため、行方不明になって
しまい、いまでは著者も出版社も思いだせない一冊にあります。
アマチュア音楽愛好家とみられる著者が、当代のヴァイオリニストは
もとより、たとえばヴィオラのプリムローズや、コントラバス、はては
ヴィオラ・ダモーレのような古弦楽器奏者まで歴訪した労作です。
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01月15日(水)
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