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与太郎文庫
by 与太郎
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■ どっちが旨いか? 大手饅頭と吉備団子
たか。
内田 能く覚えて居て下さった。其の件りは抜けてゐて、先生の御返
事に、団子は丸いとばかり思ってゐたが、吉備団子は四角いのだね、と
云ふところなんです。
夏目 あれは、猫に遣らずに、僕が食って仕舞った。
内田 先生も、ちゃんと猫にさう言はせてらっしゃる。
夏目 然し、君は他の文章で、世界中で一番旨いのは、何と言ったっ
け、他の団子ぢゃなかったかな。
内田 さうなんです。大手饅頭の事を賞めてある。此方も旧い岡山名
物でして、双方は謂はばライヴァル同士なんです。
夏目 そんなら、僕に、いや猫に贈って呉れたのは、世界中で何番目
か。
内田 大手饅頭が一番だと言ったのは、あの頃さう思ったからでして、
当時は甘い食物が手に入らなかった。其の時吉備団子を食って居れば、
此方が一番になったに違ひない。
夏目 大手饅頭も、僕は食ってる筈だ。君は贈って呉れなかったが。
内田 今直ぐに思ひ出せませんが、何かの折にお持ちし様にも思ひま
す。左様で無ければ、先生が岡山に来られた折に召し上がって居られる
筈だ。
□ 岡山で乞食生活
夏目 岡山へは、明治二十五年の七月に行ってゐる。東京大学の暑中
休暇に片岡家に滞在した事が有る。
内田 あたくしは市内の志保屋と云ふ酒屋に生れて、其の頃は未だ三
才だ。片岡さん家は、先生の兄上が継がれたんですね。
夏目 次兄の栄之助だな。曽祖父の出の臼井家を継いで、臼井直則と
名乗ったが、肝心の臼井家は当時実在しなかったんだ。だから名乗った
丈で夏目家に居候していた。東京電話局に勤めて居ったのが、岡山電話
局に転勤になり岡山で嫁を貰った。此が片岡家の長女で、今度は夫婦で
片岡家に居候した。其後、東京で家を持ったが、二十八才で夭折して仕
舞った。臼井家は再び、後継ぎを失った。そこで片岡の長男、つまり嫁
の弟を養子に据へ、嫁は其の養母になったが、後に彼女が再婚する事に
なる。僕は其の再婚式に、夏目家を代表して出席した訳だ。
内田 丸でなぞなぞですな。
夏目 義弟は、僕と同い年で、臼井姓を名乗って、生れた家に居候を
続ける。其処へ、東京か僕が、気が置けない家だから悠々と居候する。
其頃丁度、正岡子規が東京大学を退め度い、と言って松山に戻って居た
ので、気晴しに岡山へ来ないか、一緒に居候しては如何か、と手紙を出
した。
内田 おやおや、居候の居候が、居候を招待した訳だ。
夏目 子規は、都合が付かなくて結局来なかった。
内田 ヤレヤレ。
夏目 その代わり、台風が来た。岡山の大洪水で、旭川が氾濫した。
片岡の家は旭川の川っぺりだから、水浸しだ。当分は乞食同然の生活が
続いて、漸く石関の堤防をせき止めるや否や、次には僕の肛門の土手が
破れて黄水氾濫と相成った。
内田 恐れ入ります。其の次第を子規先生に手紙で認められたのは、
あたくしも拝見した事が有ります。差出人を平凸凹と署名されて居りま
すが、先生の出は清和源氏で御座んせう。
夏目 ナニ、気を遣わんでも宣い。僕は三才の折に天然痘を患ったの
で、鼻の頭は今でも凸凹なんだ。
【次号は柴田 錬三郎 vs 梶山 季之】
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【なつめ・そうせき】1867東京に生る。孤独な幼年期と厳格な自己規制
に加えて、英文学に学んだユーモアをもとに《吾輩は猫である》を書き
はじめ、晩年の十数年に森鴎外と並ぶ近代日本文学の創始者となった。
鴎外を自然主義とすれば、漱石は観念主義に身を置いてエゴイズムの探
求に専念した。胃病と神経症に悩みながら強い意志で自らノルマを課し
て執筆、毎週木曜は自宅を開放、<漱石山房>主人として各界後進を育
成した。
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【うちだ・ひゃっけん】1889岡山古京町に生る。本名栄造。百間川に因
み百フあるいは百鬼園と号す。第六高等学校では志田素琴に俳句を学び、
東大独文科に進んで漱石に私淑、後に《漱石先生臨終記》を書いた最年
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10月04日(水)
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