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与太郎文庫
by 与太郎
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■ リルケとピカソ 〜 To go, or not to go. 〜
そしてその芸術や思想の基調となったものだった。しかしピカソは自然
の中に見い出したのではなかった。スペインに生れた彼にとってヨーロ
ッパの自然はあまりに豊かすぎた。しかし彼はそんな事には惑わされな
かった。自分自身の中に貧困と孤独の生活の中に精神の孤独を見い出だ
したのである。
 しかし、やがてこの底なしの湖と彼とを隔てる氷の割れる時がくるの
である。ピカソはその割れ目に否応なしに落ち込まなくてはならないの
である。しかし彼が恐れていたその湖ははたして死の世界だったのだろ
うか。その問に対しては「アヴィニヨンの娘達」(1907)が答えてくれる
だろう。氷の割れるのと同時に彼の青の時代は去ったのである。アヴィ
ニヨンの娘達はあのアルルカンの妻のこの世のものとも思われないよう
な透明な体を持ってはいない。生き生きとした力強い体であり、最早や
あのアルルカンの持っていた死の臭は感じられないのである。それに娘
達の眼は今やはっきりと外部に向って開けられている。しかし自画像の
ような思いつめた眼ではない。明るい眼である。そしてあの孤独を表わ
す左側の空間は何処にも見当らない。だが一番大切な事は今日我々がピ
カソの絵といっているような絵に近づいた事である。すなわちあの簡約
化された硬い鋭いフォルムが崩れ始めたという事なのである。これらの
事実は一体を何を表わしているというのだろうか。それはピカソが湖の
中に落ち込んで見たものが、死の世界ではなくて、全くの生の世界だと
いう事なのである。孤独からの開放、堅苦しい精神からの自由を彼は見
い出したのである。底知れない湖は恐怖の世界ではなかったのである。
恐怖は唯一枚の氷の上にだけにあったのだ。それは氷によって限定され
た有限な世界から見た無限の世界への怖れだったのである。理解し難い
もの、把握し難いものへの本能的な怖れなのである。我々を規定する氷
とはすなわち我々の精神である。ピカソの美意識なのである。それは本
来一つの世界である生の世界と死の世界とを、美の世界と美でない世界
とを無理に分けへだてる氷なのである。その氷そのものなのである。だ
から氷が割れてしまえば、もはや相対する二つの世界は存在しないので
ある。生と死とは一つのものであり、美と醜とは同じものなのである。
底知れぬ無限の世界は恐怖ではなく、何ものにも限定される事のない無
限に広い自由の世界なのである。精神という死んだ枠から開放された生
の世界なのである。本当の意味での尽ることのない自由な世界なのであ
る。この尽ることのない自由−精神からの開放−は必然的にフォルムの
くずれを生ぜせしめるのである。フォルムとは何か。彼の目にはフォル
ムとは彼をとじこめてあの氷にしか見えなかった。フォルムとは死んだ
ものとしか見えなかったのである。彼の豊かな生命は、感動はそんなフ
ォルムの殻には入りきれなかったのである。そのため彼の感動はフォル
ムの殻を破って溢れ出たのである。縦向けになった眼だとか、ひんまが
った鼻だとかは何も立体感を出すための工夫ではない。彼は何らそうい
った観念的な工夫を持って画いてはいないのである。彼の生の感動がそ
のまま筆に伝わり、フォルムや、美意識に囲われる事なく、直接にカン
バスの上に表われているのである。その結果としてそういったフォルム
のくずれが生じてくるのである。だから彼の絵には、そのフォルムのく
ずれには何ら作為的な堅苦しさが感じられず、のびのびした自由が感じ
られるのである。フォルムがくずれたというのは何度も言うようにあの
アルルカンの氷が割れたのと同じ事なのである。彼が精神の殻から開放
され自由の世界に飛び立ったという事と同じなのである。
 一九二〇年代の作品に「三人の音楽家」や「三人の踊子」がある。こ
れらの絵はなんと楽しい絵であろうか。色のハーモニーはそのまま三重
奏となって、円舞曲となって聞えてくるようである。そのフォルムには
子供の絵のように無邪気ささえ感じられ、天真爛漫というか何か底ぬけ
の楽しさがある。そこには確かに子供の絵の持つ感じに似たものがある

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09月01日(月)
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