ID:87518
与太郎文庫
by 与太郎
[1067715hit]
■ ポール先生、さようなら 〜 I was busy 〜
「きみの英語教室というのは、プライマリーかね?」
あいかわらず意地悪なセンセイです(私が“primary”という英単語を
知ってるかどうか、試してみたにちがいない)。
「まあ、そんなところです」
(なに、帰ってウチの先生に聞けばいい。そもそも、初歩的でない英語
教室など存在しない、経営的に成りたたないのである)ウチの先生こと
門脇邦夫君は、田村忠彦君の紹介で、二年前インタビュアーをしていた
私の協力者として、米・英・露・仏・独、それぞれに気難しいインテリ
紳士たちとの対談を、すべて通訳・手配してくれたのです(ついでに、
彼の経営する英語教室の分室をわたしの店内に設けたのです)。
なにしろ彼は、ロシア語のテキスト一冊で、シベリア鉄道を乗りつい
でモスクワにたどりついた勇者です。
「絶望してはいけません。どんな断片的な記憶でも、イザという時には
役にたつものです」
語学の達人は、つねづね語っています(そうだ、絶望してはいけない)。
── 《英対話 〜 門脇邦夫とその意見 〜 19710901 Awa Library Report》参照
みんなで、ポール先生を京都駅まで見送ることになり、私も高田先生
と話しながら同行しました。プラット・ホームで、ポール先生に話しか
けられました(私に対して、はじめて完璧な日本語で)。
「君の英語教室で、わたしに出来ることがあれば言いなさい」
先生の美しい日本語の社交辞令に対して、私もありきたりの感謝のこ
とばで応じました。うまいジョークも思いつかなかったのです。
ポール先生をのせた夜汽車が、線路のかなたへ消えたあと、高田先生
を誘って、行きつけの酒場に案内しました。
「センセイ、もしボクが英語に堪能だったら、インタビュアーでなく、
トランスレーターになってたでしょうよ」
「そやな、そらそや」
高田先生は、むかしとおなじように優しい。授業中に眠りこけたボク
を起こすため、みんなに歌をうたわせたほどです。
♪ “ Oh my darling, Oh my darling, Oh my darling, Clementain.”
────────────────────────────────
── primary 1 本来の、根本の 2 最初の、原始的な 3 首位の、主
要な 4 初歩の、初等の ── 《新英和中辞典 196812‥ 三省堂》
‥‥ pay-later 1985 ごろから普及しはじめた複合造語。支払延滞人
ないし多重債務者などを指す。語法上、すこし無理があるらしく、各種
新語辞典では、いまのところ掲載をためらっている。
‥‥ 《愛しのクレメンタイン》誤=フォスター作詞作曲→《雪山讃歌》
「あのころ(授業中の)君は、まるで仏さんみたいな顔しとったね」
「その節は(居眠りばかりして)申しわけありませんでした」
「ところで、阿波くん。きみは顔がひろいらしいね」
「それほどでも、ありませんけど。何か?」
「実はね、明日から二三日のあいだ、家族旅行をするんやけど、どこか
車をタダで預かってくれる所はないやろか」
「なるほど、どこがいいかな」
私は一計を案じ、先生の車を銀行の駐車場に運びました。
すでに深夜にもかかわらず、守衛が、私にあいさつします。
「いらっしゃいませ」
「すまんが、この方の車を数日入れて置きたいんだが」
「どうぞ、あちらへ」
「ありがとう」
「きみ、たいしたもんやな。一流銀行の本店で、VIPかいな」
先生は、目を丸くしていました。ありようは、私はVIPどころか、
しばしば閉店後に駆けつける常連、つまり厄介な“pay-later”だった
のです。この手紙もまた“later's letter”でしょうか。
◆ Callback
それから五十五日後の夜、数人の関係者をまえに、私は最後の決断を
下しました。
「やむを得ない、これまでや」このとき階下で、電話のベルが鳴ります。
「だれか代りに出て、私は留守や言うて、用件だけ聞いてくれんか」
私の代理人は、しばらくして戻ってきました。
「グリ何とかいう人やった。英語教室のことで、何か協力できることは
[5]続きを読む
10月10日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る