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与太郎文庫
by 与太郎
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■ あとがきにかえて
っと詳しいお話を一流の弁舌でお伺いしたかったが、こちらの準備がで
きておらず、たいへん残念であった。
 折から選挙戦中の近衛秀麿氏にも直接お伺いしたかったが、激戦の陣
中これを断念した。故田中ゆき会長の親交の広さをよいことに、総じて
御協力下さった方がたには至るところ非礼に及んだこと、と反省し、あ
らためて陳謝したい。
 
 社史としての《十字屋十話》は、京都家政短大・中原都男教授との対
話を予定し比較的忘れられがちな京都でのリズム・バンド教育誕生の意
義を再確認することで、一応のメドをたてた。
 教授いわく“なるほど対談形式ならば誰がどういったか、ということ
で編集者の責任も軽いわけですね”には参った。当節のテレビ・週刊誌
にみられる、対話ばやりに準じたつもりはなく、私自身、十数年まえに
愛読した、コレドール著《カザルスとの対話》の冒頭で、カザルスが述
べたように“もし、この対話録について何かを語ろうとすれば《対話に
ついての対話》という新しい本が必要であろう”というウィットが忘れ
がたく、語り手諸氏に、あえてこの寛容をお願いするとともに読者には、
十話が十字屋のすべてでないことも判っていただきたい。
 中原教授との対話は、結局、十字屋のはなしであるよりも、諸井三郎
氏の人と思想、そして器楽教育の話題に尽きるところがなかった。
 
 しかし、これを以てしても社史の性格から宣伝物と見なされる心配が
あった。私の考えでは、営業部長はもっと一般的に《記念と》なるよう
な企画を抱いているにちがいない、と思われた。彼と茶を飲みながら、
はじめて具体的な基本方針を論じたことである。
 余談になるが、実はこの仕事の打合せは終始アルコール抜きであった。
友人の気やすさで、つい一杯となり勝ちなのを双方自制する暗黙の了解
があった、といってよい。
 それはともかく、それまでの経過を報告しながら、十字屋の歴史はあ
る意味で京都音楽史そのものである。それにつけ京都音楽年表があれば
便利である。といい及んだとき、黙って聴いていた彼が、突如目をむい
た。以心伝心、私は一寸待ってくれ今からでは無理だ、もっと目のあら
い年表なら考えてもみるが、と逃げをうった。その挙句《音楽100年
表》の企画を引き受ける羽目となった。これが4月中旬であった。
 
 私は直ちに家に帰って富俊夫著《音楽史年表》を本棚から抜き出して
みた。今から十数年前、初版のまま絶版となったこの小品は、高校オー
ケストラに夢中だった私に啓示を与え、卒業後たのまれもしないのにガ
リ版自製の《年表音楽史》を編んで後輩たちに配布したものだ。前者は
総合的であったが、私の50部のものは諸井三郎著《ロマン派音楽の潮流》
の引用を中心とする一種のエポック年表であった。生意気に、未整理な
点はいずれ改めます、などと記しているのがなつかしい。私は忘れてい
たものが再びいきいきとよみがえる重いだった。
 
 年表の区分・観点については営業部長に加えて出谷啓氏と精力的なデ
ィスカッションを重ねた。テーマは常に《現代の音楽環境》であった。
部長は演奏参加による主体性の確保を説き、出谷氏は正しい資料と正し
い鑑賞を強調した。そして三者はそれぞれ、ハンド・ブックとしての
《音楽年表》に期するところがあった。
 私の意図は、そのまえがきに記した通りであるが、とりもなおさず少
年時代に、シンフォニーの総譜をながめ夢想にふけった経験が、その背
景である。レイアウト偏重、無節操な抽出・省略があるとすれば、あえ
てその犠牲を省りみなかったためである。
 補表《来日音楽家》については、きわめて不充分なものといわねばな
らない。経済白書にいわく“もはや戦後ではない”の昭和31年までとし
たのは実はそれ以後の数量に圧倒されたのが真相である。他にも電子音
楽を実際に担当されたというNHK京都放送局の富崎哲氏、放送教育に
従事される同資料室の後藤彰彦氏などいずれも貴重な示唆をいただきな
がら、活用できなかった分野が多すぎた。しかし音楽年表というものが

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07月07日(日)
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