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与太郎文庫
by 与太郎
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■ リルケとピカソ 〜 To go, or not to go. 〜
の表面を見るのではなくそのものの裸の姿を見透す事なのである。考え
る事と見る事とは同じ事なのである。この彼の見る力が彼と他との繋を
断ち、その間に深い溝を掘ったのである。彼は他の人々達と同じ平面に
居たのではなく、彼の回りは深い断崖で囲まれていたのである。同じ平
面に下りる事は不可能であり、謂わば自殺行為に等しかったのである。
だから彼の孤独は他の人々の慰めた同情を受け入れるようなものではな
かった。それらは唯彼の孤独の溝を深めるばかりである。それは彼を他
の人々と同じ平面に引きずり下ろそうとする企てに過ぎないのである。
彼は孤独の中にあってこそ自分自身を掴めたのであり、その孤独の殻を
破ることは自分自身を破壊する行為に等しかったのである。また彼は自
分の孤独を疑ってはいないのであり、その孤独に自身を持っていたので
ある。この自画像の持つ力強さは、彼自身が宿しているどうにもならな
い運命的な孤独をじっと見つめ、それを受け入れる苦しみをじっと堪え
て行こうとする強い意志の力にほかならないのである。
 同じ青の時代の作品に「アルルカンの家族」(1905)という絵がある。
道化役の衣装をつけて幼児を招く夫と、裸で化粧するその妻とが、この
世のものとも思われないような、一種病的なまでの雰囲気で画かれてい
る。それでいて何か透明な異様な美しさが漂っているのである。やはり
この絵も彼の孤独を表わしている事には間違いない。しかし、あの自画
像に見られるような力強さは全くない。そしてアルルカンの眼は黒く塗
りつぶされ、落窪んでいて、もはやあの自画像の強い眼の光は影を残さ
ない。それにその青い色はまるで氷のように冷く透徹っており、ほのか
なバラ色さえ漂っているのである。そこには何か感傷的なものさえ感じ
られる。しかしそれだけでは説明しがたいものがある。感傷というのは
表面的な感じに過ぎず、透徹るような女の体には、その異様に細長く曲
り屈った手には一種の恐怖が感じられるのである。しかしそれは彼の孤
独がますます深くなり、純粋になり、透明なものにまでなったためなの
である。落窪んだ眼は内部にそのするどい視線が向けられているために
外ならないのである。その青い色は丁度水の清らかな底知れない湖に張
った氷のようである。ここでピカソが見たのはその氷を通して見る底知
れない深みである。絵に画かれているのは(感傷的なのは)その表面に
張った氷に過ぎないのである。しかも一枚の透明な氷がピカソと底知れ
ない湖とを隔てているのである。アルルカンがピカソがそこにも見たも
のは、究極までも追い詰められた孤独、死の世界と一枚の氷で隔てられ
たところにある孤独、即ち精神の孤独なのである。彼と他人との間を裂
く孤独ではない。それはピカソの眼が外側に向けられていた時に見た孤
独である。アルルカンの内側に落ち窪んだ眼が見ているのは人間精神の
孤独なのである。人間の精神が精神のない世界の中にある時の孤独であ
る。生きている事の死に対する孤独である。人間の宇宙に対する孤独な
のである。しかもその二つの世界が一枚の薄い氷によって隔てられてい
るという恐怖がその孤独をとり囲むのである。ピカソの場合は特に精神
の孤独というのは自分の中にある美意識の底知れぬ無意識に対する恐怖
に似た孤独であった。美を作り出そうとする意識の孤独である。「美と
は何か、美とは人間の意識上のものに過ぎないのではないか。美とは観
念の中にしか存在しないのではないか。それでは何が美であり何が美で
ないのだろうか。すべてが美ではないか。それともすべてが美でないの
だろうか。自分は意識して美を作り出そうとしているけれど、それが本
当に美といえるのだろうか。一体美というものがあるのだろうか」そう
いった疑問が彼を精神の孤独に追いやったのである。自分の美意識が信
じられなかったのである。
 人間精神の孤独、それはかつては東洋の画家達、思想家達によって自
然の中に、無情な自然と無常な人生の中に見い出されたものであった。

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09月01日(月)
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