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Kenの日記
by Ken
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■長崎の休日(三日目)
長崎休日三日目浦上地区を散策することにしました。今日25日は月曜日ですが、昨日の大雪の影響で長崎市内の交通機関はまだ復旧していないことから、長崎のビジネス街に向かう道は長靴と防寒着を着た人達が徒歩で職場に向かう列が続いていました。アパートから浦上地区へは少し距離がありますが交通手段がないので歩いていきました。といっても歩数はさいたま時代の土曜・日曜の歩数に比べれば大したことはありません。

浦上では最初に「平和記念公園」に行き「平和記念像(北村西望作)」を見ました。平和公園全体は雪景色、平和記念像も雪を冠っていました。前から考えていたのですが、平和を祈念する姿がこのように具象的で逞しいことに少し違和感を覚えます。特定の宗教に偏らない記念碑として仕方がなかったのでないかとは妻の解釈ですが、もう少し別な観点もあったのではと思われます。作者の「北村西望」さんは長崎県出身の彫刻家ですが、ネットで作品画像を見る限り、対象のもつ「力強さ・精神性」を筋肉や像のポーズ等の具象的な要素で表現する作品が多いようです。「北村」さんに依頼した時点でこのような像になることはある程度想像できるような気がしました。個人的には静かに犠牲者に思いを馳せ、平和を祈る像であって欲しいと思いました。ここでは「力強さ」は無用であると思いました。

平和記念公園を抜けて更に北に歩くと「永井隆記念館」があります。私は依然から永井隆記念館を訪れたいと思っていました。雪は止むどころかどんどん降り積もっています。住宅地のところどころに上手な「雪だるま」が作られています。長崎の子供たちとっては「雪だるま」を作る経験は空前絶後のものだろうと思われます。大人も手伝って気合が入った作品に出合いました。静かに雪の降り積もる「如己堂」は大変印象深いものでした。昭和20年8月9日の長崎は熱かったはずで雪の降り積もる静かに祈るように佇む姿は祈りに相応しい感じがします。

永井博士の専門は放射線医学で昭和20年6月には長年の放射線被曝による白血病を発症して余命幾ばくもないことを宣告されます。そして同年8月9日には爆心に近い長崎医科大学で原爆に襲われることとなりました。博士はコンクリートの病院建物の中で原爆を生き延びたものの博士の妻の緑さんは自宅で焼死しました。被爆直後の医療活動に従事した博士が被曝の数日後自宅に戻って妻緑さんの変わり果てた姿に出合ったのでした。博士はその後も医療活動・放射線の研究に生涯を捧げ昭和26年43歳で亡くなったのでした。

長崎・広島の原爆犠牲者を考えるときその膨大な数に圧倒されます。しかし死者の数を何万・何十万・「数」から入って、その人々の死を悼むためにはかなりの想像力が必要です。とても数秒の祈りでは足りません。人を悼む時は亡くなった人との絆とか、亡くなった人の人生を理解して始めて深い悼みを感ずるのだと思います。長崎の原爆犠牲者を悼む行為には、特定の個人に思いを寄せる必要があると思いました。永井博士だけが立派だった訳ではないですが、長崎原爆犠牲者の象徴として永井夫妻をもう少し前面に出してほしいと思いました。永井平和記念館で静かに私達を迎えてくれたのは館長さんですが、館長さんは永井博士のお孫さんでした。

私は永井博士記念館で「緑夫人」の写真を探しました。原爆投下後の火災で殆ど焼けてしまって何も残らなかったことは想像できます。「緑夫人」の写真は記念館に2枚だけありました。永井博士が長崎医大時代に下宿していた家のお嬢さんです。永井博士をクリスチャンに導いたのが「緑夫人」でした。緑さんと永井博士が深い愛情で結ばれていたことは容易に想像できました。戦後の永井博士の「命」は「緑夫人」の支えあってのことのように思えました。
01月25日(月)
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