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Kenの日記
by Ken
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■下関に居ます。
先週長崎から下関に移動しました。新しい住まいは「船の中」なのですが、その船が下関のドックに入っているので下関に来たという訳です。ドック中はエンジンを切っているので船では生活できません。水もでなければトイレも使えないからです。その代わりにドックに近い場所に宿泊施設がありそこの住んで船に通っているのです。実家はさいたま市、船が母港に係留されている期間の住まいは長崎、通常は船の中、ドック中はドック近くの宿舎ということになります。さて下関に来て最初の休日なので下関の名所旧跡を急いで回ってみました。



これは赤間神宮です。約830年前の1185年3月ここ下関の壇ノ浦で源平の最後の決戦が行われました。源義経が大活躍して平家を滅ぼしたのですがこのとき幼い安徳天皇(8歳)が壇ノ浦の海中にみを投じました。赤間神宮はその安徳天皇を祀る神宮です。神宮の横には「安徳天皇」の陵墓があります。大和・京都の地には数多くの天皇陵墓が残されていますが都を遠く離れた下関にある陵墓は非常に悲しみを誘います。合戦の日は3月25日だそうです。まだ水は冷たく関門海峡は寒かっただろうと思われます。



これは料亭「春帆楼」の敷地内に建てられている「日清戦争講和会議場」です。1895年3月にこの地で中国全権「李鴻章」と日本全権の「伊藤博文」の間で日清戦争の講和会議が持たれました。そこで取り決められたのが下関条約です。1895年3月24日には李鴻章が日本人青年に狙撃されるという事件が発生しました。幸い李鴻章は回復して講和会議は4月10日に再開されたということです。この会議のため浜離宮から「椅子」が下賜されたのだそうです。それがこの写真に写っている椅子です。長州閥を中心とする明治政府は日清戦争勝利で中国に多額の賠償を要求しました。そして国民も戦争による利得を当然のように考えるようになっていました。第二次世界大戦の芽は既にしっかり芽生えていたようです。
12月08日(火)
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