ID:85567
Kenの日記
by Ken
[99140hit]
■台風19号関東北部へ
台風19号は九州に上陸しその後四国・近畿を通過して関東平野北部を通って太平洋に抜けるようです。前回の18号でもそうでしたが、関東地方南部は雨・風こそ強いですが「巨大台風の直撃」という事態にはなりません。台風が通過する地域で甚大な被害がでているだけに「関東南部」の「運の良さ」は注目に値します。そもそも太平洋で勢力を強めた台風も九州は四国で日本列島に上陸すると「勢力が弱まり、速度も上げて」足早に通り過ぎてしまう感じです。
関東平野南部の現在の首都東京のある「地域」は広い関東平野の最南端で、関東平野は生産力の高い豊かな後背地であり、水利が良く自然環境も恵まれています。大きな自然災害といえば「関東大震災」が思い浮かぶくらいです。戦国時代にこの豊かな関東に「移封」されたのが徳川家康でした。NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」は今丁度その当たりの話しに差し掛かっています。
小田原攻めに成功した豊臣秀吉は徳川家康に無理を言って関東に遠ざけました。実力では適わない秀吉の命令ですが、背けば合戦になって家康の勝ち目はありません。家臣団共々の愛知県岡崎から関東への引っ越しは大変だったと思いますが、徳川家康は秀吉の「無理な命令」に粛々と従って関東に移りました。
家康は関東移住についてはかなり「チャレンジング」ではあるものの、将来を見据えた長期的展望に立つ時「悪くはない」と考えていたと思われます。家康は少なくとも「武蔵の国の平将門、鎌倉幕府、足利・新田の出現、駿府での経験、北条氏小田原城」など色々情報を集めて考えていたものと思われます。その結果として京都・大阪から離れているため関東の地は、秀吉の指示命令を受けることなく自分の思い通りに開発することができると考えたと思います。
家康は「秀吉との年齢差、秀吉が後継者に恵まれないこと、秀吉家臣団の乱れ」を考え合わせれば、秀吉から遠く離れて地力を養うにためには関東は絶好の土地に思えたと考えられます。家康の関東入府は1590年、関ヶ原の合戦まで10年ありました。5年後の1615年には大阪夏の陣で豊臣家は滅亡します。そして家康は「天下取り決戦」まで10年間必死に関東を開発したのだと思います。
この「徳川家関東移封」はその後の徳川300年の安定を基礎となりました。しかし「大阪・京都」から関東に移ったことにより「九州・中国地方」からは却って遠く離れてしまいました。そこには「島津・毛利・黒田」などの一癖も二癖もある大名が居を構えていました。徳川幕府300年間に営々と力を養った鹿児島・山口の「島津・毛利」が次の時代を切り開くことになったのでした。
10月13日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る