ID:85567
Kenの日記
by Ken
[99190hit]

■ラフール・ガンジーの悩み
インドの有力な次期首相候補である「ラフール・ガンジー」の意見表明が注目されています。以下はBBCインターネット報道からの抜粋です。

"The prime minister's post is not my priority. I believe in long-term politics," he was quoted as telling party MPs at a meeting on Tuesday by the Press Trust of India news agency.

インドの国民会議派(Indian National Congress)のリーダーは殆ど自動的に首相となりインドの政治指導者となります。インド独立後はそのポストには独立の功労者のガンジー・ネルー家出身者が座ることが多かったし、そうなることが当然のように受け止められています。現在国民会議派のNo.2のポストにある「ラフール・ガンジー」が次期党大会でリーダに選出され、首相に就くことは当たり前だとインドの多くの国民が考えています。以下は戦後のネルー家出身の党首です。

 1951−1954 ジャワハルラル・ネルー
 1959−1959 インディラ・ガンジー(ネルーの娘)
 1978−1984 インディラ・ガンジー
 1985−1991 ラジヴ・ガンジー(インディラの長男)
 1998−2014 ソニア・ガンジー(ラジヴの妻)
?2014− ラフール・ガンジー(ソニアの長男)

この「ラフール」の発言を知って大変頼もしく思いました。インド国民会議派においては、嘗てインド独立前においてその党首選出はかなり激しい選挙戦が行われたと認識しています。というのも1938年には、非暴力の独立運動を展開しようとするネルー(ガンジーの支持)に代わって強硬路線のスバッシュ・チャンドラ・ボースが二度に渡って党首に選出されたのでした。ボースはその後国民会議派から除名され、国民会議派とは別に殆ど単独でインド独立戦争を戦うこととなったのでした。(ボースは終戦直後に台湾で死亡しその遺骨は日本にあるのですが、インド政府は現在でもそれを本当の遺骨とは認めていません。詳しくはホームページをご覧ください)

インド独立運動において「ガンジー・ネルー」の非暴力主義とボースの強硬主義が分裂し、ボースが頼みとした「日独伊枢軸国」が戦争に敗れたために、イギリス側を支持したネルーがインド独立の立役者となりました。ネルーは独立後の初代首相に選出され、ネルー家の子孫が国民会議派の重責を勤めリーダとなることが当然のようになってきたのだと思われます。敗戦国の日本としては複雑な立場ですが、世界各地でのイギリスの節操の無い戦略を見抜いていたと言う点でネタジの行動は評価されても良いと思います。

「インディラ・ガンジー」はネルーの一人娘ですが、インディラがパルシー(拝火教徒)の「フェロージ・カーン」と結婚する際にカーンはマハトマ・ガンジーの養子となって、ヒンズー教徒となると同時に「ガンジー」という神通力のある姓を得たのでした。インディラは「父ネルー、夫フェロージ」の亡き後に国民会議派のリーダとして政治の表舞台に引っ張り出されてしました。

今回の「ラフール」の「躊躇い」も尤ものように思えます。嘗てのように「志ある党員」が努力してリーダシップを磨き、正々堂々と選挙戦を戦って党首を決める国民会議派になることがラフールの目指す所ではないでしょうか。世界最大の民主主義を誇るインドですが、そのリーダが殆ど世襲で決まってしまうのでは画竜点睛を欠きます。ラフールの発言通りに若い世代が切磋琢磨して、民主的な方法でリーダを選ぶことになれば良いと思います。そうなれば日本に眠るチャンドラ・ボースの遺骨もインドに帰ることとなり、インドの独立運動の歴史の空白を埋めることになると思います。


[5]続きを読む

03月06日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る