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Kenの日記
by Ken
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■北京の「東交民巷」
昨年12月の末北京旅行では、北京の東交民巷ホテルに3泊して北京市内・近郊の観光をしました。実は旅行会社のプラン設定ではもう少し高級なホテル(ペニンシュラ・ニューオータニとか)のオプションもあったのですが、ホテルで過ごす時間は少ないだろうと考えて名前も聞いた事のない「東交民巷ホテル」を選んだのでした。

実際に泊まって見ると、設備は少し古く、賑やかな通りからは離れているのですが、天安門広場に近いので歩いて観光散歩するには便利な場所であることが分かりました。びっくりしたのは2日目の朝に少し散歩してみると、直ぐ横の(西側)建物に「旧日本公使館跡」という案内板が掲げられていました。また別の夜に東側の建物をじっくり見て見ると、そこは「正金銀行の跡」だということが分かりました。

北京の「故宮」の印象があまりにも強かったので、旅から帰ってから妻と二人で中国(特に清朝末期)に関する以下の本を1ヵ月でまとめて読みました。

「蒼穹の昴」(新田次郎)
「珍妃の井戸」(新田次郎)
「紫禁城の黄昏」(R.F.ジョンストン、中山理訳)

これらの本によって、19世紀の清朝末期から中華民国成立に至る間の「故宮(紫禁城)の様子がかなり分かってきました。とくに最後に掲げた「紫禁城の黄昏」は清の最後の皇帝溥儀のイギリス人家庭教師が書いた作品であり、当時の中国サイドからみた歴史であることから非常に興味深い本でした。

これらの本に中には随所に「東交民巷」の名前が出てくるのです。実はこの「東交民巷」は清の時代には外国公使館地域で、列強が実質的に治外法権を獲得して駐留していた場所なのです。そして現在の「東交民巷ホテル」のある場所は当時「日本公使館」があった場所であることが分かりました。

東西に走る「東交民巷通り」と南北に走る「正義路」が外国公使館地区の主要な道路でした。「正義路」は今では中央が公園のような緑地帯になっていますが当時は中央に水路が走っていたようです。その二つの道路の交差点の北東に日本公使館がありました。更に正義路に沿って北側、東長安街に面している場所がイタリア公使館、イタリア公使館・日本公使館と正義路を挟んで西側にあったのがイギリス公使館。東交民巷通りに沿って日本公使館の東側にはフランス公使館がありました。

この東交民巷地区は清朝義和団事件の時に義和団の拳闘士から攻撃を受けたのでした。この攻撃には清朝も加担していたことから、日本軍を中心とした8ヶ国連合軍がこれを打ち破り、清朝から賠償金やら特権やらを獲得し、列強の権利拡大に大きな役割を果たすことになったのでした。また形式的な共和制が始まっても形式的に残存していた清朝の「溥儀」が「紫禁城」を脱出した当座の宿舎は東交民巷の日本公使館でした。こうした事は日本に帰ってきてから知りました。是非もう一度泊まって見たいと思います。

現在は路に面した「門」やら建物が当時の面影を残しています。中の建物がどうなっているのか分かりませんが、高層建物がないところを見ると、昔の建物をそのまま使っている可能性が高いです。正義路に面した嘗ての日本公使館の正門には「北京市人民政府」の看板が掲げられていました。正義路を挟んだ東側は中国の最高裁判所となっています。嘗ても公使館は中国政府の重要な組織だとか政府高官の屋敷になっているようです。
01月29日(木)
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