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Kenの日記
by Ken
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■万里の長城


今日は北京観光2日目で郊外の「万里の長城」見学でした。目的地は北京の北西の「八達峰長城」。北京市内から高速道路を使うと1時間程度で到着します。到着した27日は非常に良い天気だったのですが、この日は曇りで陽射しがなく時折雪の舞う非常に寒い一日になりました。標高の高い(約1000m)「八達峰」は本当に寒かったです。

なお朝一番で近くのスーパでGSMのSIMカードを購入して妻用の携帯電話を使えるようにしました。インドで使っていたGSM携帯ですが再開するのは3年振りです。

八達峰の長城は「高速道路」が走り、高い所までロープウェイが行っていますので長城を観光するには非常に便利になっています。予定ではロープウェイは片道登りだけで、帰りは歩いて降りることになっていましたが、非常に寒いので往復ともロープウェイを使いました。

世界遺産に登録されている「長城」です。実際に近くでみると「丁寧」な作りに圧倒されます。長城に使われている「石」は麓から運び上げられたものだそうです。物凄い多くの人の労働の結果だということが実感させられます。

帰りの途中に「居庸関」に寄りました。居庸関の説明はガイドブックではあまりないので、現地の観光案内(日本語)看板の解説を掲載しておきます。

居 庸 関
居庸関は、北京の長城沿線上の著名な古関所で、国家指定文化財とされている。関所が所在する峡谷は、大行山脈の軍都山地に属し、険しい地形を呈している。春秋戦国の時代から、早くも燕という国がここを占拠し、当時「居庸塞」と称された。漢の時代なって、居庸関の関城がすでにかなりの規模となった。南北朝になると、関城が長城と繋がるようになった。それから、唐、遼、金、元などいくつもの時代を経過したが、居庸の峡谷には必ず関城が設けられ
た。
現存の関城は、明王朝の洪武元年(1368年)に建設し始め、徐達という大将軍と常遇春という副将軍の計画によるものである。明王朝の景泰初年(1450〜1454年)とその後に数回修繕された。関城は東に翠屏山の尾根に、西に金拒山の山順に連なり、一周の長さが4000メートルを超え、南北の月城と城楼、敵楼には必要な軍事施設が完備している。関城の内外には、さらに役所、お寺と儒学校などの各種の施設がある。
清王朝の末期以降、居庸関の関城の建造物が徐々に荒廃したが、雄大な関城と多<の歴史的な遺跡が残り、中国の古代軍事文化を知るための一窓口となっている。1992年、昌平県十三陸特区は文物保護のため、関城の建造物を全面的に修復し、昔の雄姿を再現させた。関城周辺の自然景観が美しく、金王朝の明昌時代(1190〜1195年)に「居庸登翠」の名で「燕京八景」のひとつに数えられた。1982年、居庸関はその歴史的価値と自然景観の美しさが評価され、八達嶺、十三陵風景名勝保護区に編入され、その重要な観光スポットとなった。


「長城」見学の後北京への帰り路の途上にある「明の13陵」を見学しました。明は1368年「朱元璋」(洪武帝)によって創建され16代の皇帝がその帝位につきました。そして「1644年」清の太宗(ホンタイジ)が農民反乱の李自成を滅ぼして清朝を創建するまで続きました。そして明3代皇帝の永楽帝が都を南京から北京に移したのでした。従って「永楽帝」は北京遷都の大恩人と言うべき皇帝です。その永楽帝は自らの陵墓の場所として現在の13陵の場所を指定したことから、永楽帝以降の13人の皇帝の墓が集まっていると言うわけです。永楽帝は北方への備えを固めるために自らも南京から北京に引っ越した非常な英傑だったのです。

今日は世祖永楽帝の墓「長陵」と第14代神宗万暦帝の墓の「定陵」の墓を見学しました。現在13陵の中で「定陵」だけが発掘されて夥しい副葬品が発見されているとのこと。その副葬品は「長陵」の立派な永楽帝の胴象の周りに展示されています。「定陵」では発掘された地下宮殿も見学できます。14代皇帝がこんなに立派であるということは、3代永楽帝の墓はどうなっているのか。非常に興味深いものがあります。


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12月28日(日)
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