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Kenの日記
by Ken
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■チャンドラ・ボースの63回忌
今日8月18日はスバッシュ・チャンドラ・ボースが飛行機事故で亡くなった日です。それは1945年の太平洋戦争終戦直後でした。62年後の今日杉並区東高円寺の「蓮光寺」では63回忌の法要が営まれました。妻といっしょに法要に参列してきました。望月副住職が導師を務められました。昨年は住職のお父さんとお二人で読経されましたが、今年はお父さんの具合が良くないようでお一人で勤められました。世代交代がここでも進んでいます。

読経のあと副住職さんがお父様からのメッセージを読み上げられました。内容は概ね以下のとおりでした。

○ボースの遺骨はインド政府から父(副住職のお爺さん)に託されたものである。
○父はその責任を重く考えていて、夜寝るときに遺骨を抱いて寝たこともあった。
○最近民間団体の活動でボースの遺骨をインドに返そうとする動きがあるが、そういう考えに組することは考えていない。
○インド政府からの正式な話が来るまで大切にお預かりしたい。

これは昨年インド政府に提出された「ボース調査団」の報告が基本的に「蓮光寺の遺骨は偽物」と報告していること、またインド政府はこの報告書を採用しなかったものの「遺骨が本物である」とも決めていないことを念頭に置いたものと思われます。今後も暫くこのような法要が続くものと思われます。

法要参列者の数は昨年より減っている感じがしました。法要の最後の方になってインド人の家族がどやどやとやってきたことが印象的でした。法要が終わった後、蓮光寺の1階の広間に場所を移して茶話会があり私達も参加させていただきました。私達の向かいに座られていた方は「吉野(旧姓)」さんという方で、お父様はインバール作戦を指導した「牟田口中将」の通訳をされていた方だそうです。インバール作戦は旧日本軍とチャンドラ・ボース率いる「自由インド軍」の共同作戦であったので、吉野さんのお父さんは牟田口中将とボースの通訳を何度もしたのだと思います。吉野さんはその風貌と語り口からとても優しそうな方で、お父さんの思い出でを綴った著書を持参されていたのですが、見ず知らずの私が頂戴してしまいました。ありがとうございました。

太平洋戦争中インドシナ半島に展開した日本軍は反英組織と積極的に手を組みました。さらに特殊工作部隊を組織してそうした民族独立運動を扇動もしたのでした。その対象となったのがボース率いる「自由インド軍」でありマレーのハリマオであったのです。しかしインド人やマレー人の中には日本軍の目的が民族解放ではなく、イギリスに代って宗主国になろうとしているのだと考えている人達もいて一枚岩ではなかったのです。チャンドラ・ボースはそんな中で日本軍と一体となって反英戦争を指導したのでした。従ってボースの行動についてインドで評価が固まっているとは言い難い状況にあります。当時インドではガンジーが独立運動の指導者でした。ガンジーは侵略戦争を仕掛けた独・日・伊と戦うことを選択し、インドの独立運動をひとまず中断し、宗主国のイギリス軍側に立って戦ったのでした。

チャンドラ・ボースが日本軍と共に戦ったインバール作戦は自由インド軍にとっては「祖国」に近づきつつある行軍ですが、日本軍にしてみれば祖国からどんどん離れていく熱帯ジャングルの行軍なのです。日本軍と自由インド軍の考え方の相違があったのは当然だと思います。インバールを目前にして疲弊した日本軍は撤退するのですが、その際にまだ意気軒昂なボースを説得するのは大変な仕事であったことでしょう。

蓮光寺様の法要のあとの茶話会には色々な方々が参加されていました。ボースと行動を共にしていたというご老人もいらっしゃいました。昨年チャンドラ・ボース・アカデミーを主宰し毎年の追善法要を組織されてこられた「林」様が亡くなられ、当時を実際に知る人が少しずつ減ってきていることは非常に残念です。「林」さんを失って「ボースの遺骨」をめぐる運動も求心力を失い、あらぬ方向に行ってしまうことが危惧されます。そんな中若い副住職様がお父さんのメッセージを決然として読み上げられたことが印象的でした。茶話会に参加された帝京大学の中村さんという方から、ボースの飛行機事故に関する論文の写しを頂きました。
08月18日(土)
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