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Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review @ Tokyo
by Niseko-Rossy Pi-Pikoe
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おは、朝はクラシックカフェよね、米本珈琲、姐さん二人、行け行けいけとしGO GO、行きけむ、シンクロ選曲に自分で驚く、中村佳穂と青木涼子、これ、兆候、徴候、聴講、だわ、




10時セブン珈琲タイムはいつも思うんだが、Brewing機械表示、ビッチェズブリュー想う、ビッチの汁、そんなの汚くない?マイルスぅ、あなたの雫は今日はどんなダンスをしましたか?青葉市子が耳元で囁くフラレジお決まりキラーフレーズ、それエロくない?、世界ツアーする青葉市子マネージャー募集中、やです、お呼びでない、失礼、







しかし、二〇〇一年の「収容所の記憶」展をめぐって生じたもうひとつの論争のなかで、ランズマンが収 容所内で撮影された四枚のむろん本物の写真に対してすら拒絶反応を示すとき、その思想 はおのれの狂信的な側面をあらわにしていくだろう [B]。端的に言えば、ランズマンはホロコーストの表象 「不可能性」をめぐる信念を、ホロコーストをめぐる表象の「禁止」へとすり替えているにすぎない。「[ラ ンズマンの] 表象不可能なもの、という理念においては、実のところ不可能性と禁止という二つの観念が混 同されている」 [44]ランシエールはランズマンをそのように批判したわけだが、ある意味でこれほどまっ とうな指摘もない。繰り返すが、むろんそれは『ショア』という映画がなしえた達成をどのように評価す るか、という問題とはべつの事柄である。

ここでランシエールが語っているのは、きわめて常識的なことである。すなわち、芸術作品において「表 象不可能なもの」など存在しない。 すべてはなんらかのしかたで「表象可能」である。ゆえに、ランズマン の主張を支えているのは、何を「表象不可能なもの」とみなし、何の表象を禁じるのか、という倫理的 な姿勢にほかならない。表題の「倫理的転回」とは「事実」と「権利」のこうした混同をさすものにほ かならず、ランシエールの批判の矛先は、こうした倫理的な「禁止」を安易に「不可能性」と同一視する 「純粋性の幻想」 [5]へとむけられる。そしてこのテクストは、政治や美学における「曖昧で不安定な」 性格を確保しておくことこそが、この「表象不可能性の神学」への抵抗たりうるだろう、という示唆と

星野 太 美学のプラクティス




11月だよー、年間ベストを考えるのだ、シンスイングジャーナル部門、マークターナー、フリン=デュムラン、ウイリアムパーカー、先ず三枚、あと今年なに出てたっけ、ちゃちゃのりジャズ部門はジョーマネリピースコンサート、マルクデュクレタワー2、ティムバーンブラッドカウント1st、スタンゲッツ22カルテット1955、ジャズの波が戻ってきた感コロナカカトンネルを抜ければそこは雪国まいたけ、ああ、腹へった、





北方ロマン主義と抽象表現主義

一九六一年に『アートニューズ』に掲載された「抽象的崇高」は、ローゼンブラムがみずから「抽象的崇 高」という概念を公にした最初期の論文である。これは、初出時にして四頁というごく短いものではあ るが、のちの「近代絵画と北方ロマン主義の伝統』において開示される議論の枠組みは、このテクストにお いてほとんど出揃っている。

さて、ここでローゼンブラムが論じている同時代の画家は、クリフォード・スティル(一九〇四八〇)、マーク・ ロスコ(一九〇三七〇)、ジャクソンポロック(一九一一五六)、バーネット・ニューマン(一九〇五―七〇)の四名であ る。あらためて紹介するまでもないだろうが、各人ともに二〇世紀初頭の生まれであり、戦後のアメリ


カンチガイしてた、北方ロマン主義、青年は北を目指す衝動ロマンなのだ!、という、アイヒャーはノルウェーを、と、


























11月04日(金)
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