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ビバ彦♂日記
by ビバ彦
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■爆音後
土
爆音終了後、朝9時まで歌舞伎町つぼ八。爆音の感想はもちろん、11月末の名古屋
の話やら市井の話やら。名古屋のガリガリ君と復帰後の市井の道程を辿る。そこか
ら話しは流れ、アイドルの刹那性について。アイドルというものは儚いからこそ、
そこに圧縮された刹那の美、輝きが宿るものなのか。
「ほんとにあっという間だよ」とはごっしーの弁。“推し”というアティチュード
に含まれる変更可能性・可塑性(推し対象がころころ変わる、あるいは変わりうる
ということ)も、こうした儚さの認識に由来するに違いない。例えば、件の市井
ヲタにしても復帰時の熱をもって最後まで市井を応援した人間はごく僅かだろう。
そして儚いからこそ、そこに常軌を逸した――しかし瞬間的でしかない――熱狂が
生まれるのか?
かく言う俺は、“推し”というアティチュードを内在的には全く経験していない。
モーニング(のメンバー)にも松浦亜弥にも後藤真希にも擬似恋愛感情は一切持って
おらず、ただ、エンターテインメントとして面白がっているだけであり、さらに
モーニング以前には、アイドルに全く興味がなかった人間だ。アイドル体験の経験
値が不足しているのだ。だからアイドルの儚さと美の相関説の妥当性については
簡単に判断できない。ただ、この言説の分りやすさ、直ぐ腑に落ちる点には警戒が
必要だと思う。そうした大まかな枠組みで考えたときに零れ落ちたものこそが、
我々の感動の実質を形作っているような気がするのだ。
また、モーニングおよびその周辺は所謂“アイドル”とは違うような疑念も拭えない。
例えば、安倍なつみは我々の前に登場してから、もう6年以上が過ぎていることを
忘れてはならない。モーニングの象徴たる彼女の存在からして既に旧来のアイドル
像を逸脱しているのではないか?
いずれにせよ、今後もクソまじめに、ヲタならではの微細な目(ウオの目ならぬ
ヲタの目?)を持ってハロー!を味わい続けていくつもりだ。上記の問いへの自分
なりの回答は、その結果自ずと出ることになるだろう。
つぼ八を出てからは、意識朦朧としながらテクテクとCDJを運搬、タクシーにすれば
良かった……と後悔しつつ、朝の10時過ぎに帰宅。シャワーも浴びずに就眠。
話しはここで終わらない。夕方、松浦亜弥の慶應公演があるのだ。2時頃根性で
床を離れ、シャワーで目を覚ましてから日吉へ。
駅で慶應のアベ氏とチケット受け渡し。自分でもチケットを確保してはいたが、
さらに良席を確保しているというので。入場列に並ぶと当たり前のような顔をして
F4弟登場。何も打ち合わせなくとも出会ってしまうのは、あややヲタというか
あやや者の性か。会場正面の中庭芝生に見慣れた一団。大阪のNぎクンを中心とした
オドリスト集団。軽く声をかける。そう言えば、慶應モー研と組んでヲタ芸大会を
やるとかなんとか。既に終了していたようで、実際に見ることが出来なかったのは
残念。盛り上がったのだろうか? まぁ普通にキショかっただろうな(笑)。
キショさこそがヲタ芸の本質なればこそ。事前に聞いていた通り、会場の日吉記念
館は大会場。おそらく国際フォーラム位はあるだろう。客も超満員でざっと眺めた
感じ、5000〜5500人というところか。おそらく6000は入れていないだろう。
早速席に着くと、隣があややナイト主催のクニオ氏。モー研確保枠というところか。
一緒にDJを行った長岡での話しもそこそこに、しばし松浦論を交錯させる。
どうしようもないあやや者の性。
ライブ自体は可も無く不可も無く。気付いたこと。前半4〜5曲は声がやや荒れて
いたが、後半になるに従い艶が出てきたような印象。気合は通常(今秋ツアーの
中盤以降)よりは入っていたように思う。構成は完全に前週の秦野公演と同じ。
全体的な感想としては、同一だった構成の問題もあるが、それだけではなくライブ
の質的に松浦亜弥はパフォーマーとして“凪”の状態に入ったかもしれないとの
印象を強く抱かされる。昨年春の1stライブ以来、著しい変化・進化の過程を体現
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11月17日(月)
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