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活字中毒R。
by じっぽ
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■『ブラック・ジャック』が終わった日
『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(福元一義著・集英社新書)より。
(巨匠・手塚治虫の代表作のひとつ『ブラック・ジャック』について。当時手塚先生のチーフ・アシスタントだった著者の回想です)
【昭和48年の10月、『ブラック・ジャック』はひっそりとスタートを切りました。壁村さん(壁村耐三・『週刊少年チャンピオン』編集長)が、当初は全4回ほどの予定で連載を依頼した、というのは有名な話ですが、実はその時、ひと足違いで「週刊少年マガジン」(講談社)からも、新連載の依頼が来ていたのです。これは翌年にスタートする『三つ目がとおる』になるのですが、どちらの依頼も富士見台の仕事場で行われたので、私は両作品の記念すべき誕生の場に居合わせることができたのでした。それにしても、もし講談社の依頼が2〜3日早ければ、『ブラック・ジャック』は「マガジン」に連載されていたかもしれません。
さて、『ブラック・ジャック』の新連載にあたり、当時少年誌での執筆が減っていた手塚先生は非常に張り切って、作画資料の医学書を自ら用意したほどでした(ふつう、資料は他のスタッフが買っていました)。この時に先生が購入した高価な3冊の医学書は、連載中ずっと資料として重宝され、いわば作品の”バイブル”となりました。また医療機器等はどういうツテで手に入れたのか、病院向けのカタログを先生から直接渡されていました。
”病院”のような特殊な建物も、当然資料なしでは描けませんでしたので「建築」という雑誌の”病院特集号”を保存しておき、参考にしていました。するとある時、「私の近所の病院が作品に出てきてうれしかったです」というファンレターが来て、ニガ笑い……なんてこともありました。
連載当時の画材についてですが、血の表現には太いマジックをよく使用していたのを覚えています。原稿に点々とマジックで黒を乗せていくのですが、これはもっぱら手塚先生の仕事でした。なにせ仕上げの段階でやる作業なので、アシスタントではおっかなくてとてもできなかったのです。
やがて、作品の人気が出てきて連載が長期化するにつれて、作業の効率化も図られました。アシスタントたちは、手が空いた時間に、資料を元にいろいろな手術シーンの患部を鉛筆で下書きし、ストックしておきます。そして、先生がその中から使えそうな絵をチョイスして手を加え、作品中に使用するのです(とくに大きなコマでよく使われました)。これにより、手術シーンで一から資料を調べたり、写真を引き写したりする時間を大幅に短縮することができました。
なお、毎回読み切りスタイルの『ブラック・ジャック』ですが、旅行前で描きためが必要な時などは、さすがの先生も編集者に「2〜3回の続きものにしてもらえないかなあ」と頼むことがありました。
しかし、壁村さんはガンとして聞き入れませんでした。作品のためには、結果的にその方がよかったような気がします。】
(以下は昭和53年の『ブラック・ジャック』の連載が終了したときのエピソード。当時の手塚プロは、久々のアニメ(『100万年地球の旅 バンダーブック』)の制作で非常に厳しいスケジュールに追われていたそうです)
【アシスタントたちは、講談社・錦友館・一橋寮……と、出版社や旅館を転々としながら、『未来人カオス』や『ブラック・ジャック』等を描いていました。そして、そんな8月12日のこと。長机を囲み原稿をやっている我々の部屋へ、急ぎ足で入ってきた手塚先生が、「やァみなさん、ゴクローさんです。今回で『ブラック・ジャック』は終わります。もうちょいですから頑張ってください」
と言いながら、準備された席に着くなり、カリカリといつも通りペンを走らせ始めました。我々は「えっ?」と一斉に顔を見合わせましたが、先生のいつもと変わらない様子に、半信半疑のまま今の言葉を反芻していました。
そして、その日の午後6時。「人生という名のSL」20ページが脱稿。あれだけの人気を集めた連載の、なんともあっけない幕切れでした。】
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今日は「昭和の日」ということで、マンガ界の「昭和」を象徴する存在でもある手塚先生と『ブラック・ジャック』のエピソードを御紹介します。
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04月29日(水)
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