ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
[10024495hit]

■「私のどこが好き?」と恋人や夫にたずねたとき、どう答えられるのが嬉しいですか?
『今、何してる?』(角田光代著・朝日文庫)より。

(「錯覚 Illusion」というタイトルのエッセイの一部です)

【私のどこが好き? と恋人なり夫なりにたずねたとき、どう答えられるのがうれしいか、というテーマで友達と話したことがある。どう、というのはつまり、内面をほめられたほうがうれしいか、それとも外見か、ということである。
 驚いたことに、外見をほめられたほうがうれしいにきまっている、と大半の女友達が答えた。顔が好み、脚が好き、目がぐっとくる、肩のラインがたまらない、だから好きだ、と続けてほしいらしい。なかには、尻のかたちがいいと今の恋人が言ってくれて、そのことに心底感動した、という人までいて、これはもう、驚きを通りこして不可解である。
 私は絶対的に内面派である。ココロがきれいだの性質がやさしいだのと言われたいのである。しかし私は内面をほめられたことがただの一度もない。手がいい、頭のかたちがいい、あげくのはては、うしろ姿がいいとほめられる。うしろ姿がいいと言われて喜ぶ女がこの世のなかにいるのだろうか。
 かくして私は外見派の女たちに反論する。顔は老けていく、脚なんかいつ太くなるかわからない、太ればでかい目も小さくなるし尻はどんどん垂れる、外見なんかすぐ変化してしまう、そんなものを好きの理由にされて何がうれしいのか。しかし外見派には外見派の信念があるらしい。内面なんかそれ以上に無意味だ、と言うのである。
 私はね。息巻いて友人まり子さんが言う。かつて恋人に、あなたのガラスのようなココロが好きだ、と言われたのよ。ねえ、私、そんな繊細な女だと思う? ――思わない。けっして悪い意味ではなくて、鋼級のたくましさを持つ女であると私は思っている。しかしだからこそ、ガラスのようなココロと言われてうっとりしたいのではないか。
 結局、外見派と内面派の接点は見いだせず、私のどこが好きかとつねに問われているはずの、男側にその話をしてみた。ねえ、本来なら内面をほめるべきだし、内面をほめられて喜ぶべきでしょう? と。しかし男友達1は、女たちとは少々違う見解を述べた。
 なあ、喧嘩するとするだろ? なんだこの馬鹿女、とか言ってぎゃあぎゃあ喧嘩しているときに、「でもこの女はココロがうんときれいだから」なんて、鬼婆みたいに怒っている彼女に対して思うか? 馬鹿女とか言いながら、「ああやっぱ、この目、おれ好きなんだよなあ」だの、「こいつこんなだけど脚だけはきれいだよなあ」だの思えば許せるものだし、最悪の事態をまぬがれることができるんじゃないかなあ。
 しかしさらに私は疑問を抱く。もし外見が変わってしまえば、喧嘩のあとで私たちは許されないのだろうか。昔は脚のきれいな女だったけど、もう見る影もない、喧嘩の最中にそんなことを思われて、憎しみ倍増なんてことになりかねないのではないか。

〜〜〜〜〜〜〜

「私のどこが好き?」という問いに対して、「外見をほめるべきではない」と僕はずっと考えて生きてきたので、この角田さんのエッセイを読んで、かなり驚きました。女性も「内面をほめられたほうが喜ぶ」ものだとばかり思っていたのに!

「人を見かけで判断するなんて最低!」「外見じゃなくて、中身をちゃんと見ておかないと」というのが「一般常識」で、そういうときに「顔がかわいいから」「スタイルがいいから」などと答えるのは、なんだか軽薄そうだし、言われたほうの女性は、「じゃあ、私が年を取って容色が衰えてきたら、好きじゃなくなるのね!」なんて気分になりそうですし。男性の場合は、男同士で「男は見かけじゃない!」なんてお互いに慰めあったりすることも多いですから。

 しかし、これを読みながらもう一度考え直してみると、「外見」より「内面」のほうが人間の真実なのだ、という「常識」そのものが疑問にも感じられてくるのです。
 僕は自分の外見にも内面にも自信はないのですが、自分なりの評価からすれば、「外見のほうが、より救いようのない状況」だと感じています。ところが、「内面」ってやつは、ほめられてもなんだかどうもしっくりこないところがあるんですよね。

[5]続きを読む

09月24日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る