ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■プラハのソヴィエト学校での「国語」の授業
『米原万里の「愛の法則」』(米原万里著・集英社新書)より。
(作家・エッセイストであり、ロシア語通訳としても知られる故・米原万里さんの講演録集の一部です。米原さんのプラハのソヴィエト学校での体験から)
【日本の国語の教科書は名作をリライトしたり、あるいはダイジェストにしたりして載せますが、私が通っていたソヴィエト学校では、国語の授業と宿題で実作品を大量に読ませるのです。かなり19世紀の古典偏重でしたけれども。それから学校の図書館に本を返すときに、司書の先生が生徒に読んだ本の要約を、毎回毎回言わせるのです。感想は聞かれません。つまり、その本を読んだことがない人に、どんな内容かわかるように伝えるということを、毎回やらされるのです。国語の時間もそうです。
小学校3年までいたから覚えていますが、日本では「はい、なになに君。そこ読んでください」。大体一段落読むと、「はい。よくできましたね。じゃ、なになにさん。次の段落を読んでください」。「はい、よくできました」というふうに進めます。
けれども、ソヴィエト学校の国語の時間は、一段落を声を出して読みますね。そして読み終わったら「はい、今読んだ内容を自分の言葉で要約しなさい」と言われるのです。声に出してきれいに読む、純粋に音だけ、文字を追って読むことは、ある意味では内容を把握していなくてもできるんです。ところが、読み終わった後にすぐに内容をかいつまんで言わなくてはならないとなると、ものすごく攻撃的で立体的な読書になっていくわけです。これを徹底的にやらされました。国語の時間は段落ごとの要約ですけれども、図書館に本を返すときには、本一冊分の梗概、要旨を、毎回客観的に、読んでいない人にもわかるように話す訓練をさせられました。こうなると、読み終わったら、あのかなり怖いおばさんにこの内容を話さなくてはいけないなぁ、と思いながら読むわけですから、入ってくるものが羅列的にではなくて、立体的になるのですね。
作文の授業では、まずテーマが決まります。仮に「自分の母親について」とテーマが決まると、そのテーマに関連するような、つまり、人物描写のある文学作品の抜粋をまず読まされるのです。たとえば、トルストイの『戦争と平和』に出てくる女主人公のナスターシャ・ロストーヴァ、この人を描いた場面。それからツルゲーネフの『初恋』のアーシャという女主人公、この人についての描き方。こういう抜粋を全部先生が読ませます。そのうえで、それの梗概を書かされるのです。要旨ですね。次に、要旨をさらに詰めて構造を書かされるのです。構造というのは、まず第三者によるその人物に関する噂。次に実際に直接会ったときの第一印象。次に顔とか目とか口などの、ある意味では立ち振る舞いなどの描写。それから癖とか声の調子とか、あるいはいくつかの状況や事件に対するその人の反応の仕方。そして、以上から推察されるその人の性格、ほかの人々との関係について。それから語り手である主人公との関係、交流。ある事件が起きて、その主人公が成長していく姿とか。そういうふうに物語の骨格を把握させて、書かせるんです。そのうえで、母親についての作文だったら、それをどういう梗概・構造で書いていくかをまず考えさせてから、作文を書かせるのです。
文を読んだり聴いたりして感受していくプロセスは、このように分析的なのですね。理解するというプロセスは分析的です。ところが、話したり書いたりして表現するときは、バラバラになっているさまざまな要素を統合していかなくてはなりません。バラバラのままでは、表現できません。つまり、まったく逆なのです。通訳には、分析的に物を聞き取って正確に把握する能力と、それをもう一度統合してまとめて表現する能力、この両方が必要なんです。ですから、このような国語教育は後に同時通訳になるにあたって、大変役に立ちました。】
※こちらの参考リンクも、ぜひ併せてお読みください。
参考リンク:「それであなたは何と思ったのかな?」という「文学的指導」の嘘(活字中毒R。2006年4月22日)
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08月30日(木)
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