ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■文庫の「解説」が無くならない理由
「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2006年9月号の「出動!TORO RESEARCH(トロ・リサーチ)・第23回」(取材・文:北尾トロ)より。

(「日本独特の読者サービス『解説』って?」というタイトルで、文庫の「解説」について書かれたものの一部です)

【文庫にはいつから解説がつくようになったのだろう。正確なところはわからないが、老舗の新潮文庫では昭和22年、文庫の発行を再開するにあたり、第1回配本である『雪国』(川端康成)で、初めて解説がつけられたという。当時の文庫化作品は純文学作品が主流。解説の役割も文学史的な位置づけや作家・作品論といったオーソドックスなもの。時代的に古くなっている作品を文庫という形で蘇らせていたため、鑑賞の手助けになるような内容が求められたわけだ。
 状況が変わるのは昭和50年代に入ってから。映画とタイアップして成功した角川文庫の影響で、それまで名作の殿堂入りを意味していた文庫が、エンターテイメント系小説やエッセイなど、なんでもありの様相を呈するようになる。作品の傾向が変われば解説に求められるものも変わるのは必然。文学作品の評論的なものから、読後感を共有できるエッセイ的なものが登場するようになり、現在へとつながっていく。

(中略・以下は、新潮文庫編集部の佐々木勉さんへのインタビュー「どうして文庫が変わっても『解説』は無くならなかったのか?」の一部です)

佐々木「平成に入るとますます競争が激しくなり、解説者に有名タレントが起用されたり、パブ効果を期待してコラムニストや新聞記者が書くなど多様になっていきました。でも、ネームバリューに頼るだけじゃなく作品に愛情を持つ人なら無名の方でもいいのではないかということで、最近ではライターさんに頼んだり、書店員さん等の非文筆家を起用するケースも出てきています」

 ううむ、凄いことになっているなあ。必ずしも効果的とは言い切れないのに、解説なんてやめちゃえ、というふうにならないのも不思議だ。やっぱりアレか、文庫本には解説がついててあたりまえ、という読者のニーズは版元として無視できない、と。

佐々木「それも確かにあります。単行本と同じ形では売れ行き的にも不安だからお得感を出したいわけです。でも、ぼくらの存在証明として何かしたい、という気持ちもあるんですよ」

 ん、どういうこと?

佐々木「個人的な意見ですけど、文庫編集者って悲しい面があって、元になる本があるからと、大きいものを小さくしただけだと思われがちじゃないですか。当然、文庫編集でのプラスアルファを示したくなるわけです。で、時代小説なら地図や家計図をつけたりと工夫をするんですが……」

 そうか。解説は、何かしたい文庫編集者にとって貴重な”腕の見せどころ”なのだ。佐々木さんが理想とするのは、本編のあとで解説を読むと、全然違う物語が立ち上がってくるようなもの。読者の読みを超える読みを提示してほしいという。】

参考リンク:活字中毒R。「文庫に『解説』を付けない作家」

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 村上春樹さんや本多孝好さんのように「文庫に『解説』を付けない作家」がいる一方で、文庫編集者としては、「解説」こそ腕の見せどころ、という面もあるのですね。もちろん、文庫編集者というのも、考えてみれば「どの作品を文庫化するのか?」というリサーチから、版権の交渉や装丁など、「仕事」はたくさんあるのでしょうけど、確かに、目に見える形で、自分がこの本に関わった証を残したいというのは、ものすごくわかるような気がします。やっぱり「もともとある本を小さくするだけだから、ラクでいいねえ」なんて思われるのは心外だろうし。


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08月19日(土)
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