ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■「十七歳であるが故」の完璧
「インストール」(綿矢りさ著・河出書房新社)の巻末の高橋源一郎さんの「解説」より。
【『インストール』で、もっとも重要なのは、言葉が(日本語が)、ほとんど美しい音楽のように使われている(と感じられる)ことだ。それは、つまり、この小説が「完璧な日本語」で書かれているということだ。
しかし、十七歳の、当時、高校生の作者に、そんな「完璧な日本語」の作品を書くことが可能だろうか。
それは可能だ、それどころか、「十七歳であるが故」に完璧なのだ、とぼくは思うのである。
およそ十四歳から十七歳にかけて、青春前期とも呼ぶべき、この数年間を、ぼくは特別な時期だと考えている。そして、そのことは、ぼくにとって、とても大きな問題だったのだ。
ぼくが、「書く」ようになったのは、身近に、詩や批評を書く友人たちがいたからだ。およそ、十四歳から十七歳の頃にかけて、ぼくは、そのような友人たちと「書く」真似事を続けていた。その中に、「完璧」としか言いようのないものを「書く」友人がいた。
彼らが「書く」ものは、ぼくが「書く」ものとは根本的に違っていた。俗っぽい言い方をするのなら、彼らの言葉は光り輝いていて、「ほんもの」であるのに、ぼくの「書く」言葉は、贋金に過ぎない。ぼくはそう考え、それでも、たとえそれが「贋金」であっても、ぼくは書き続けたいと願ったのだった。
やがて、彼らは「書く」ことを止めた。ぼくは、懲りずに書き続けているが、自分の言葉が「贋金」ではないかという思いは、いまでも、どこかに残っている。
彼らの書いたものは、ぼくの手元にあり、たまに読み返すのだけれど、十代の青年(少年?)の思い過ごしではなく、やはり「完璧」な(しかも、当時感じていたより遥かに初々しい)ものだ、といまでも思う。つまり、十五歳や十六歳や十七歳の青年(少年)の書いたものとして「完璧」なのではなく、その時代の全表現の中においても「完璧」だった、といまもぼくは感じる。
昔と異なるのは、そのことを「異常」だとか、「天才」はいるものだ、と諦めるのではなく、冷静に受けとめることができるようになったことだ。
おそらく、どの時代にも、言葉(や音や色彩や形)に対して、異常に敏感で、自分の周りに存在する、それらの言葉(や音や色彩や形)を、「白紙」のように吸収し、そして、いったん吸収した言葉(や音や色彩や形)を、自分という「白紙」の周辺に、奇蹟のように結晶化することのできる人間がいるのだろう。
それを「才能」と呼ぶのなら、その「才能jは、我々が、通常、「小説を書く才能がある」とか「音楽家をしての優れた才能」と呼ぶときの「才能」とは異なったものだ、とぼくは考える。
そして、そのような「天才」たちを、ぼくは、ぼくの友人だけではなく、言語芸術(だけではないが)の歴史において、何人も知っているのである。】
〜〜〜〜〜〜〜
正直、僕にとっての「綿矢りさ」という作家の最初の印象は、「りさたん萌え〜」の域を出ないものでした。17歳の女子高生が書いた、「ネットのエロチャットの話」なんて、「話題性」だけのイロモノなのではないか、と。
でも、今回あらためて『インストール』を読み返してみて、この文章のテンポの良さは、やっぱり、タダモノではないなあ、と感じたのです。むしろ、「内容そのものに物珍しさが無くなってしまった今」だからこそ、この小説の「文体の凄さ」が伝わってくるのかもしれません。
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10月23日(日)
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