ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
[10025140hit]
■”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”を「翻訳」することの難しさ
だからこそ、wineがまだ日本の家庭にまるで浸透していなかった当時、阿部知二はこれを「葡萄酒」とは訳さず、あえて「酒」としたのだと思う。原文にどことなく漂う日常感が喪われてしまうことを危惧し、価値の妙なインフレを避けた。翻訳するさいのこういう取捨選択は、ビシッと腹をくくらないとできないものだ。wineという原語のもつ「情報」を訳者の裁量で捨てるのは、勇気がいる。阿部氏はここで、ディテールの「情報」よりも、全体から見た「トーン」を採ったのだろう。
(中略)
さて、うっかり飲みすぎる前に、『嵐が丘』の「ワイン問題」にもどる。
人嫌いの大家ヒースクリフが、挨拶にきた年下の店子ロックウッドに出すお酒はなんと訳せばいいのか? 原文では、”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”となっている。
岩波版の「酒持ってこい」は前項で書いたとおり、名案だと思う。とはいえ、いま現在こう訳したとすると、いささか「日常感」が出すぎだろうかとまた思い悩む。ここでの「酒持ってこい」は、アイルランドで酒といったらビター、鹿児島だったら焼酎に決まっている、という意味での「酒持ってこい」である。十九世紀の北イングランド・ヨークシャーの家庭でワインがそほど浸透していたか、日常感覚を獲得していたか、いまひとつ疑問だ。
実際、『嵐が丘』の終わりのほうで、舞い戻ってきたロックウッドを歓待するお手伝いのネリーは、「どうぞうちのオールド・エールでも飲んでいってください」と、すかさずエール(ラガーより強くて苦い”ビール”)を勧めるのである。やっぱり、その当時の普段着の飲み物はビールだったろうか。
と、訳文を順繰りに見ていったところで、「ブドウ酒でも持って来い」という角川版の翻訳に、がぜん目が釘付けになる。この「ブドウ酒でも」の「でも」は「とりあえずビールでも飲むか」の「でも」である。いやいや、ぶどう酒というと仰々しいが、うちの蔵にあるやつだ、たいしたもんじゃないよ、とりあえずってことでね、という軽くいなすニュアンスが絶妙に漂ってくるではないか。「とりあえずビール」の日本的精神が折りこまれているではないか、副助詞の「でも」ひとつ入れるだけで。
こういう小さな日本語は偉大な役割をはたすなあ、とあらためて感心する。
このたった二文字は、「ワイン」と書いても「葡萄酒」と書いても失われてしまう原文の微妙な呼吸を、さらりと酌んでいる。
品詞と構文ばかり訳しそろえることが「正しい直訳」と信じられがちだけれど、そうした翻訳の、なんと窮屈なことか。
かつての翻訳で、wineを「ぶどう酒」と訳したのは、「ワイン」という語がまだ目慣れないことを思うと、親切な訳だった。時代が下って「ワイン」と訳すのは、ちょっと新しくてお洒落だったかもしれない。でも、半世紀近く前に、wineを「酒」とあえて訳した人がいたことを、わたしは忘れないようにしたい。翻訳がつねにリアルタイムであるためにも。
たかが、wine、されど、wine。問題の箇所のwineをなんと訳すべきか、ヒントがおぼろげに見えてきた気がする。
(中略)
しかし、こうして冒頭の「ワイン問題」を考えているうちに、もうひとついいことに気がついた。
原文の”Joseph, take Mr.Lockwood's horse; and bring up some wine.”は、前半と後半の文のあいだにセミコロンが入っている。これがポイントだ。日本語読者からすると、ピリオドとコロンとセミコロンとカンマの役割の違いってなんなの、と思ってしまうが、この箇所はピリオド(句点)でもコロンでもカンマ(読点)でもない。仮にピリオドを全休符とすると、コロンからセミコロン、カンマへの順で、ブレスが軽く(短く)なっていく。だから、「おい、馬をつないでおけ」(全休符)「それから、ぶどう酒を持ってくるんだ」ではないし、最初からいっきに、「馬をつないで、ぶどう酒を持ってこい」とブレスなしで繋がるのもちょっと違う。後者だと、いかにも勢い込んで歓待している感じがする。もう少し鷹揚な感じがほしい。
[5]続きを読む
01月10日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る