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活字中毒R。
by じっぽ
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■押井守監督が語る、「『うる星やつら』の友人関係」
それに比べて、僕たちは何と薄汚れた存在なのだろう。打算がなければ人と付き合うこともできない。損得でしか、友達を作ることもできない――。虚構の美しい友情を見せられて、そんなふうに若者が考えはしないか、と心配になるくらい美しい友情で、映画やアニメや漫画やドラマの世界は満ち溢れている。だが、現実はそうではないのだ。
第一章で述べたようなデマゴギーが、ここにもひとつあった。漫画やアニメで描かれた友情など、未来からやってきた殺人ロボットと同じくらいに、いやそれよりももっと虚飾に満ちた表現だ。
少なくとも僕は、そんな友情を描いたことはこれまでにただの一度もない。学園コメディーである『うる星やつら』には主人公の友人たちが何人も登場するが、あの中で描かれるのは主人公たちの欲望であって、その欲望を実現するために誰と誰が共闘し、誰と組むのが有利かという、そういう関係だけだ。それこそが、現実世界で「友人関係」と呼ばれているものの実態に近いと僕は考えて、アニメーションにしたのである。
僕自身はどうかというと、やはり価値観を共有できる人間としか付き合えなかった。ということは、つまり、損得でしか人と付き合えなかったということだ。だから、彼女がいくら欲しくても、民青や革マルの女の子と付き合うわけにはいかなかった。
(中略)
「友人は手段」という言い方は、「友情は美しい」というより、ずっと冷たく聞こえるかもしれない。でも、そう割り切ってしまえば、別に友達がいようがいまいが、そんなことは気にならなくなる。仲間外れにされようと、同級生から無視されようと、そんなことはどうでもよくなってくるはずなのだ。
ところが、世間があまりに美しい虚構の友情を若者たちに押し付けるから、どうしても友人の少ない人間はどこか欠陥人間のような見方をされてしまう。そしてその傾向は、近年ますます強くなっているようだ。
ある広告会社の調査によれば、「あなたは何人の友達がいますか?」と子供に聞くと、現在は昔よりかなり友達が増えているという。少子化で自分の周囲にいる子供の数は相当減っているのに、友達の数は逆に増えている。
この珍現象はつまり、現在は動機なくして友人を作る時代になったということの表れなのだろう。友達を作るのは何かを生み出したいからではなく、友達を作ることそのものに、若者が価値を置き始めているからなのだ。手段が目的になったということである。
だから、友達を作ったからといって、その友達と何かを成し遂げようと考えているわけではない。友達が多い人、というふうに周囲から見られることだけが自己目的化している、というわけだ。】
〜〜〜〜〜〜〜
これを読みながら、僕は「そんなふうに『仕事上有用な相手』との付き合いだけで生きていけるのは、あなたが『世界のオシイ』だからなのでは……」と言いたくなってしまったんですよね。確かに、押井さんほど「仕事に充実感を得られる人」であれば、それでいいのかもしれないけれど、世の中の人の大部分にとっては、仕事というのは、「生きていくための手段」でしかないわけで。
押井守にはなれない僕らとしては、仕事の後に一緒にお酒を飲んで「憂さ晴らし」をするための「友達」だって必要なのです。
しかしながら、「友人は手段」と考えるのは、けっして悪いことではないと僕も思います。自己否定の泥沼に陥らないためには、たしかに有効かもしれません。
僕も「友達」が少ないので、「あなたの親友は何人?」なんて聞かれると、ちょっと落ち込んでしまうのです。そもそも、そう問われたときに「じゃあ、どういうのが親友?」「あいつを『親友』って言ってしまっていいのだろうか?」と悩みますし。
僕にとっての「親友」のイメージって、太宰治の『走れメロス』の、メロスと彼の身代わりになった友人・セリヌンティウスなのですが、物語のなかでは、このふたりですら、お互いのことを「ちらと疑った」のですよね。
そうやって考えていくと、厳密な意味での「親友」なんて存在することのほうが奇跡的なのではないかと。
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08月14日(木)
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