ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■プラハのソヴィエト学校での「国語」の授業
 米原さんは、小学校3年生のときに、お父さんの仕事の関係で、一家そろってチェコスロヴァキアのプラハに移住されています。米原さんの御両親は、プラハで「ここにいる3年から5年の間チェコ語を勉強しても、日本に帰ってからもチェコ語を学び続けるのは難しいだろう」と考えました。
 そこで、日本人にとっては比較的メジャーであって日本に帰っても勉強を続けられ、社会的なニーズも高いであろうロシア語のソヴィエト学校」に米原さんを入学させたのです。
 実際は、全く言葉の通じない「学校」という逃げ場のない世界での米原さんの生活というのは、慣れるまで本当に大変だったそうなのですが、ここでの体験は、後の「作家・通訳としての米原万里」にとって、ものすごく貴重なものだったということです。

 ここで米原さんが紹介されている「ロシア語のソヴィエト学校での国語教育」というのは、日本で「国語教育」を受けてきた僕にとっては、かなり違和感があるものです。
 僕が受けてきた、20年前くらいの日本の「国語」の授業では、「音読」と「感想」に割かれている比重が大きかったのですが、プラハのロシア語のソヴィエト学校の「国語」では、「内容を要約すること」と「文章の構造を理解すること」を重視しています。
 そんなに本が豊富な時代でなかったからこそできたのかもしれませんが、もし現代日本の小中学校の図書館に「借りた本を返すときには、絶対にその要約を司書の先生に説明しなければならない」なんてルールができたら、おそらく、本を借りる子供の数は激減するのではないでしょうか。
 まあ、こういうのはどちらが「正しい」と言えるようなものではなくて、日本の「情操教育に偏りがちな国語教育」というのも、感性豊かな子供を育てるためには有意義なのかもしれないんですけどね。音読しながらずっと「この部分の要旨は……」なんて考えていなければならない「国語」って、なんだかすごく殺伐としていそうですし。

 ただ、参考リンクで清水義範さんが

【清水:だから、「心が書けるようになろうね」という側へ引っ張っていってもいい子もいるよ。でも、全員そっちへ持っていこうと思ったら大間違いだということに気づいたんですよ。】

と仰っておられるように、「感想」を書く力にばかりとらわれがちな日本の「国語教育」というのは、必ずしも「世界標準」ではないということは知っておいて損はないような気がします。「感想力」イコール「国語力」とは限らないのです。
国語の成績があまり良くなくても、すばらしいプレゼンの資料やビジネス文書を作る人はたくさんいますし、優秀な国語の成績を引っさげてマスコミに就職したにもかかわらず、意味不明な文章を書き散らしている人も少なくないように思われますし。

 しかし、こういう話を読むと、トルストイやドストエフスキーのような「重厚な大長編小説を書き上げる文豪」がロシアに多いのには、それなりの「理由」がありそうですよね。実際に彼らがこんな「国語の授業」を受けていたのかどうかは、僕にはわからないのですけど。

08月30日(木)
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