ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■ある小さな男の子の「殉教」という「美談」
 実際には、「頭の中のイメージ以上の現物」というのはなかなか無いものなのかもしれませんが、この幼児は「神への信仰心」ではなくて、「物質的な欲望」から、「殉教」を選んだとも考えられます。そりゃあ、現代人の感覚からすれば、「実際にあるかどうかわからない天国の御馳走よりも、いま目の前にある焼肉」なのでしょうが、当時の子供にとっては、「役人がくれるというお菓子」というのは「お菓子でいっぱいの天国」と同じくらいのリアリティしかなかったのかもしれないし。そもそも「死ぬ」と言うことに関して、この幼児がどのくらいの「実感」があったかもわかりません。
 要するに、この「殉教」の場合、「純粋な信仰心」というよりは、「損得勘定」のほうが上回っていたわけです。現代人からすれば、そんな教育をした親に対して、「なんでそんなふうに幼い子供まで『洗脳』するんだ!」と憤りたくもなりますが、子供に「信仰心」を植え付けるためには、そういう「ご利益」か「信じないと地獄行き」みたいな「恐怖」のいずれかを利用するしかないのも現実だったのでしょう。
 この幼児に対して、役人が、もっとストレートに「信仰を捨てなかったら殺すぞ」と言っていたら、この幼児はどう答えていたのだろう?

 しかし、その一方で、この子供が「不幸」だったのか?と問われると、【その状況で何かを選んだ、ということが、強いて言えばその子の唯一の救いなのだ】というのは、確かにそうかもしれないなあ、という気もするのです。このエピソードの場合、本当に「悪い」のは、「子供の希望を利用した宗教」ではなくて、「信仰を理由に弾圧し、改宗を迫り、『殉教』を生む当時の社会情勢や権力者」なんですよね。そんななかで、「信仰を捨てないという選択をした」というのは、確かにすごいことなのではないかなあ、と僕は感じます。逆に、そんな世の中で「お菓子が欲しいから棄教します!」っていう幼児の「余生」が、そんなに幸福に満ち溢れたものになったとも思えないし。 
 「損得で物事を選べる人生」っていうのはものすごく幸福なのかもしれないけど、「損得しか選択基準がない人生」っていうのは、ものすごく不幸なような気がします。

 僕には、この幼児の「殉教」のエピソードそのものよりも、これを「美談」として利用することが「宗教」の罪深さなのではないかな、と感じられてなりません。

08月09日(木)
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