ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
[10024580hit]

■「原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に『よその家の事情』でもありました」
 世界の国々のなかには「核兵器を保有したこと」を多くの国民が祝うような国だってあるのです。それは「日本人」である僕にとっては異様な光景なのですが、北朝鮮の例をみてもわかるように、「核兵器」は、とくに小国にとって、たしかに「この上なく有効な外交カード」になりうるというのも事実です。そして、すでに地球を何十回も滅亡させられるほどの核兵器を持つ国が、他の国に「お前らは核を持つんじゃない!」と「世界平和」のために言い放っているというのは、なんだかとても不思議な光景ですよね……
 「核の抑止力」なんて言うけれど、本当に「生きるか死ぬか」という戦争になったとき、「みんな道連れ」にしようという権力者が出ない保障はどこにもないはずなのに。

 しかしながら、僕はこんなことも考えてしまうのです。
「原爆投下」は、歴史的にみれば、まさに「大量虐殺」ではあるのですが、人が「殺される」という点においては、核兵器もピストルも毒殺も、そんななに変わりないのではないか?と。
 自分が死ぬという立場になってみると、下手に拷問とかされてなぶり殺されたり、傷がどんどん悪化して苦しみぬいて死んでいくよりは、いっそのこと核兵器で一瞬のうちに「無」になってしまったほうがラクなのかもしれないな、という気もするんですよね。「核兵器」というのは、人類全体にとっては「特別な意味を持つ兵器」である一方で、個々の殺される人にとっては、「たくさんの悲惨な選択肢のなかのひとつ」でしかないのです。
 「核兵器」だけを特別視することに、そんなに意味があるのだろうか?
 そんな疑問に対する答えも、いまだに出せてはいないんですよね。

 「戦争」も「原爆」も、今の時代に生きている人間にとっては、「他人事」なのかもしれません。
 でも、1945年の8月6日に「ヒロシマ」で亡くなった人たちも、「その瞬間」まで、「ごく普通の戦時下の朝」を過ごしていたのです。

 むしろ「平和であること」のほうが、よっぽど特別なことなのではないかと、僕には思えてなりません。

08月06日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る