ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■村上春樹の生原稿を「流出」させた男
 この「村上春樹自筆原稿流出事件」を今朝ヤフーのヘッドラインで読んだときには、率直なところ、「ああ、またこういうニュースか…」としか思いませんでした。作家の昔の原稿流出なんていうのはそんなに珍しい話ではないですし、以前には漫画でも同じような事件もありましたし。流出した「氷の宮殿」の翻訳が73枚で100万円を超えていたということや、18時の全国ネットのニュースで最初から2番目に取り上げられたということに対して、「さすがは村上春樹」と、感心してしまったくらいだったのです。
 でも、この文藝春秋に村上さんが寄稿された文章を読んでみると、そこに書かれていたのは、ある編集者と作家の愛憎入り混じった物語でした。村上さんの原稿を無断で自宅に持ち帰った、安原顯(あきら)さんという編集者は、村上さんの「数少ない友人のひとり」だったのです。
 村上さんは作家デビューされる前に千駄ヶ谷でジャズを流す店を経営されていて、安原さんはその店の客のひとりでした。その頃の安原さんは、カウンターのなかで立ち働いているバーテンダーが、のちの日本を代表する作家だとは、夢にも思っていなかったに違いありません。そして、「風の歌を聴け」で村上さんがデビューしてからしばらくは、「サラリーマン的ではない編集者」と「文壇が苦手な小説家」は、「異分子同士」の連帯感があったようです。ただし、仕事の上では、「作家をコントロールしたがる」安原さんは村上さんの好みのタイプの編集者ではなかったようで、一緒に長編の仕事をしたことはなかったそうなのですが、それでも、当時は誰も知らなかった海外作家を村上さんが翻訳したものを雑誌に掲載してくれたりして、村上さんは、現在でも安原さんに対する感謝の念は持っている、とも書かれているのですが。
 しかしながら、ある日を境に(「その日」や「そのきっかけ」は、村上さんもわからないと書かれていました)、安原さんは壮絶な「村上春樹バッシング」を始めます。そして、それ以降、2人は絶縁関係となりました。

 上に引用させていただいた文章は、村上さんが「小説家・安原顯」について書かれている部分なのですが、僕は正直、これを読んで、安原さんという人の心境を考えると、この人を「裏切り者!」と言い切れないような、やりばのない哀しみを感じるのです。一方の当事者である村上さんが書かれた文章なので、100%の事実とはいえないのかもしれません。でも、自分が大手出版社の編集者だったときに空気のようにバーテンダーをやっていた男が、あっという間に国民的な作家になっていき、自分は置いてきぼりにされてしまっているというやるせなさが、この安原さんの言動から伝わってくるのです。この「自分の才能を信じたくてしかたなかった男」に対する、村上さんの【「これくらいのものでいいのなら、俺にだって書ける」という思いを抱くようになったのだろう。その気持ちはよくわかる。また書けてもおかしくはなかったと思う。しかし、何故かはわからないのだが、実際には「これくらいのもの」が書けなかったのだ。】という言葉は、もしかしたら、泉下の故人にとっては、原稿流出なんて比べ物にならないくらい強力な「しっぺ返し」なのかもしれません。この「紙一重」が、永遠に届かない差であることは、村上さんにも、安原さんにもわかっていたはずなのです。
 そう、安原さんには、「作家としての決定的な何か」が足りなかった、ということなのでしょうし、それをこんなふうに「文藝春秋」に書かれるなんて、本人が読んでいたら、すごい屈辱を感じていたことでしょう。
 でも、それを目の前の「天才」の前で認めたくない安原さんの気持ちは、「神の座」に到底届かない僕にもよくわかります。「アマデウス」のモーツァルトとサリエリのように、安原さんにも「才能」がそれなりにあったからこそ、かえってその「圧倒的な差」を自覚せざるをえなかったのかもしれません。


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03月10日(金)
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