ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6750,閑話小題 〜今度は、エピクロスですか!
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* 『老い』と「死」は一対、やはり
ネット上にあったエピクロスに対する評論から
【 〜まずは、「死」に対する言葉から〜
古代ギリシャの哲学者・エピクロスの
<私が存在する時には死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない>
という言葉を知った時、長年悩まされてきた死の恐怖から解放されたのである。
<先ず、私たちは自分の抱いている死の恐怖を正直に認めなくてはならない。
次に、死を恐れることは理屈に合わないと認めなくてはならない。
死んだ人間には感覚が一切なく、母胎に宿る前の状態と同じだ。従って、死んで
いることは存在していないことと変わりない。自分が生れる以前のことを怖がる
人はいないのに、なぜ死を思い悩むのか。私たちの生涯が始まる前の何十億年に
亘って支配していたのと全く同じ無感覚状態なのだ。
一度このことに気づけば、死の不安はなくなる。死に対する恐れは、想像力が
生み出す妄想に過ぎない。死の恐怖にどう対処するかは、人によってそれぞれで
あろうが、私自身は、このエピクロスの考え方に沿って生きよう、そして死を
迎えようと、自分なりの覚悟ができた。エピクロスのおかげである。>
―
〜次に「老い」に対する言葉も〜
< 若者がではなくて、美しく生を送ってきた老人こそが、祝福されている
と考うべきである。というのは、男盛りの若者は、考えが定まらず、運に
よって、激しくもてはやされるが、老人は、かっては期待することすら
むつかしかった善いことどもを、損なわれることなく安全に感謝の念によって
包み、老齢を、あたかも泊まり場として、そこに憩うているからである。>
―
▼ この感情と、後悔と自虐が混同し、時には激しく、時には静かに、過去の
行蔵を撫でまわす日々。あとは、諦念が底なしに覆いくる。それが、老年の
風景となる。 15年前にエピクロスをテーマにしていた。その後の人生で
様々な思いが加わり、味わいが違っている。「老い」と「死」は一対である。
読み返すと、次の一文が目に飛び込んできた。
<官能の快楽は、その数十倍も煩わしさをもたらす。
真の快楽とは、自由をもたらすものでなくてはならない。
すなわち、官能の享楽「自足」であり、みずから足れりとすることだ。>
――――
2004/08/16
1231, エピクロスー哲学についてー29
エピクロスといえば、快楽主義の「エピクロスの園」の酒池肉林が思い浮かぶ。
次に印象に残るのは、「人間にとって死は存在しない、死んだと同時に存在が
無くなるのだから,本人にとっての死は存在しない」という言葉である。
ー父が死期を悟り、その恐怖に恐れおののいている時に、この言葉を教えた。
父は、「死の意味が初めて解った!」と言ったことを思い出す。
言葉の力を思い知った出来事であった。
エピクロスは、
人生は良く生きることである、その為には良く考えるべきだと説いた。
快楽を幸福な生の始め(アルファ)にして、終わり(テロス)であると断言。
しかし、一般的に誤解されている、官能の享楽ではない。
いや逆に、
肉体的な欲望を否定した魂の平安こそが、エピクロスのいう「快楽」なのだ。
官能の快楽は、その数十倍も煩わしさをもたらす。
真の快楽とは、自由をもたらすものでなくてはならない。
すなわち、官能の享楽「自足」であり、みずから足れりとすることだ。
つまり際限ない欲望から開放されることである。豪華な食事や家に住んで、
心がかき乱されているより、貧しい生活でも魂が安らかにあるほうがはるかに
好ましい。その為に、思慮を深めることと説いた。
ソクラテスやプラトンは「よく考えることが、よく生きること」と、
説いたが、逆に「よく生きるために、よく考える」という人生哲学を主張した。
驚かされるのは、20世紀に登場した人文主義者と非常に似ていることである。
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09月08日(日)
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