ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6100,閑話小題 〜チョイト哲学、「死」について −2
<反・幸福論 佐伯啓思>
* 死とは自己のうちから出てくる
リタイア後の日々の生活で、毎日が‘絶対的な無意味’かつ‘ニヒリズム’
の果てしない海に私という舟が漂っている感覚にある。老いの心理状態とは、
こんなものかと。目先を楽しむか、何か新しいことに近づくしか手立てはない。
≪ ☆ ‘絶対的な’無意味
たとえば、展覧会などでただ真っ白なキャンパスだけが置いてあれば、
怖ろしいとか、嫌悪感というより、不気味な感じをするのではないか。
それは、製作者の意図がわからないからです。製作者の意図とは、絵の持つ
意味です。その意味が見いだせないから、何か不気味なものを感じるのです。
もっとも、これらは「生」のなかの話なので、いずれ相対的なもので、あえて
意味を剥奪するすることで逆説的に「意味」を与えようとしているが、本当に
壮大な「無」に向合ったとき、恐怖や不安やおかしいなどというより、まずは
「不気味」な感じを持つでしょう。では、その不気味さから逃れるために、
どうすればよいか。さしあたり答えは簡単です。意味を求めないことです。
意味の無いことに意味を求めるから不気味になるのであって、意味ない、答えの
ないものについて、意味を求めることをやめることです。…
☆ ニヒリズムからの脱出
「死の観念」は、われわれをただ不安のまま宙づりにするだでなく、「死」に
ついての何の解決も与えるものではない。いくら「死」について考えてみても、
「死に方」一つ容易に糸口さえもつかめないのです。窓のない暗室のような部屋
に我々を誘導していく。その部屋で、われわれは、苦しい呼吸の中で出口を探し
もがくだけでしょう。「死」という必然によって「生」が囲まれ、脅かされると
いう感覚は、確かに「死」こそ恐ろしい、といった恐怖を与える。
「死は恐ろしい」のではなく、「死について考えること」が、われわれに恐怖
を与えるのです。「死について考えているにかかわらず、全く何の解決が得られ
ないこと」が恐怖を与えるのです。「死の恐怖」といった問題は何を示している
のでしょうか。窓のない狭い部屋に誰が閉じこめたのでしょう。われわれ自らが
部屋に入りこんだのです。そうだとすればどうすればいいか? 「死」を考える
ことをやめればいいのです。相対的な限界の人間が、「絶対的なもの」について
考えることをやめることです。「‘絶対的な’無意味」について土台、考える
ことは無理だった。…われわれ人生が最後が「無意味」であれば、その無意味の
ゴールを目指し続けている「生」も無意味ではないか、という疑念が沸いてくる。
であれば、「無意味なもの」に向けて走り続けているこの人生も、ただただ
苦痛の連続だ、ということになる。 しかも、このマラソンの最後の方には、
「老」と「病」が出てくると、これはもう本当に「生は苦である」になる。
そのゴールがただ「無意味」では、一体、何のための「生」かになる。
生・老・病・死、すべてが苦ということになる。
こうして「死」の問題は、われわれを深くニヒリズムに誘い込むのです。
どうせ、みんな死んでしまうのだから、人生なんぞに特別の意味を求めても
しょうがない、ということです。これに続いてでてくるのは、「どうせ死ぬの
なら、死ぬことなど考えてもしかたない。それよりも、ただ楽しんだ方がいい
じゃないか」ということになる。やがてニヒリズムは、たいていの場合、現生で
の刹那的な快楽主義をもたらし、まれに現生からの「隠遁」への傾きをもたらす。
さて、それでは、このニヒリズムからの脱出は、「死などないことにしよう」
として快楽の中に陥るか、あるいは樽の中に、陥るしかないのでしょうか。
実は、この問題を論じた人がいます。トルストイです。 ≫
―
▼ 早朝に、上記の文章を独り、一時間以上かけ、味わいながら書き写した。
夜半の0時に4時間の熟睡から目が覚めて、やはり4時間、ヨガの死者のポーズ
(といっても、仰向けのウツラウツラの状態)と、右下にして丸まるポーズを、
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11月25日(土)
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