ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6032,閑話小題  〜ハイデッガーの「世人」とは?


  * またまた同じテーマで…
 地方都市に住んでいるため行動範囲が狭くなってしまう上に、対話できる相手
が少ない憂さ晴らしで、これを書いているところもある。 先日、「世間」に
ついての文章を書上げ、アップをしようとした直前に、「ネット内検索」に
「世間」と入れたところ、4ヶ月前に、酷似した批評が書いてあったため、
疲れがドッと出たが、急遽、他のテーマを書上げた… 。
前のテーマの内容も、ほぼ同じ語り口。そこで、この二つを比較するのも愛嬌と、
そのまま、提示することにした。 問題は、以前の方が力が入っていること?
 ところが、昨日の同月同日の過去文に、 <『コトの本質』松井孝典著>の
「世間論」。これが本質をついている。<世間とは、リアルの社会を内部モデル
化した様相>と見切れば、これで充分のはずだが、何故か、書きたくなるのが
「世間」。同レベルで、閑のためか。 アウトサイダーを気どっても、所詮は
先祖様からの枝葉の存在でしかない。しかし、「誰にとっても生地は聖地」。
そこは汚してはならない生活圏。分かってはいるが、一度、得た自由の感覚を、
今さら変えることは出来ない。で、…私の内部モデルの心象風景は、とある
地方の「城下町モデル」。全国、いや全県的普遍性とネタの新鮮さに欠けるが、 
娑婆の味が沁みている。  
<『あの人、いま、どうなった(が〜?)』『あのバカ、今ではさ〜!』と、
城下町鴨が、今日もガーガーとガ鳴りたてる。> これが私の内部モデル。

――
4935,コトの本質 ー5
2014年09月18日(木)
               『コトの本質』松井孝典著
 * 世間とは、リアルの社会を内部モデル化した様相            
これまでの『世間』の解釈で一番、納得できた言葉が、
「社会=リアル、世間=社会を内部モデル化したバーチャル」である。
社会との関わりあいで、世間という内部モデルが、バーチャルにつくり
上げられる。たかがバーチャル、されどバーチャル。リアルとは、
ほど遠いが気にかかる虚構世界である。  ーその辺りから
≪ 社会という言葉と、世間という言葉があります。我々が人としてその集団
 の中で生きていくうえの、その集団のあるがままの外界を、たとえば社会と
呼ぶとします。社会は現に存在する外界です。社会と世間は同列ではありません。
私にとって、世間とは、脳の中につくられる社会を投影した内部モデルです。
世間というのは、したがってリアルなものではなく、バーチャルなものです。
世間をどのように見ているかは、私の内部モデルとして、社会をどう投影して
考えているかということに関わってます。世間というものは、私の言葉で
いえば人間圏そのものともいえます。それは概念化された世界です。
人の営みの、しきたり化されているようなところから、価値観から何から、
全部ひっくるめての世間でしょう。だから、あるがままのリアルな社会とは、
少し違います。人間圏のリアルの側面としての社会については、絶えず
観察をして、世間という私の内部モデルを更新してます。・・
社会と交わるたびに、人間圏の諸々の情報が膨らんでいきます。すなわち、
内部モデルの細部が、どんどんできてくるのです。社会と関わるたびに、
世間というモデルが作り変えられるのです。 ≫
▼ 日本人、とりわけ地方の地域社会は、世間という長年積み重ねられた
 地域偏見が一種の宗教のように、それぞれを縛り付けて、それがバーチャル
であることさえ気づかず人生を終える。だからライフワークを持っていないと、
自分を見失ってしまう。バーチャルの世間に埋没すると、ライフワークの価値が
見えなくなる。だから、城下町は、文化度が高い人と、低俗の人との二極分化が
明確になってしまう。一般的に、低俗の人を世間というが、誰もが、どこかに
兼備えているから始末が悪い。それが年をとるにつれ老醜として露出する。
老いることは、恐しい! さらに、老いた群れは、醜く恐しい!
――
   〜次は、先日の文章から〜
  ハイデッガーの「世人」とは?

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09月19日(火)
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