ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5554,閑話小題 〜父親の43周期に
   * 父親の44周期に
 私も、父親の亡くなった年齢まで、あと一年になる。その一年前に胃癌の
大手術を受けて、余命一年と宣告されていた。現在の私の年齢で、余命一年の
宣告を受けたことになる。手術直後、急遽、金沢から帰ってきて、千葉市郊外
の千城台ビルの建設計画に着手することになる。父親から直接、創業ノウハウ
を受継ぐ貴重な経験になっていた。
 父親は、年末年始と法事以外は、酒を一切に口にしなかった。大酒飲みの
私からして、いつ、癌の余命宣言を受けても不思議ではない。新潟での事業を
立ち上げた頃の営業関係の多くが飲酒過剰?で倒れ、既に亡くなっている。 
で、私の死期を75歳にラインを引いたのは、あながち間違いでもない?
 毎年、飽きもせず、父親のことを書いているが、これが私の供養。父親が、
ハッキリした具体的行動指標になってくれたのが、私のアドバンテージになって
いたようだ。 事業も、最悪の想定を課して、平常から長年かけた準備をして
おくことの必要性も学ぶことが出来た。数十年ぶり学生時代の友人が、
『お前は、用心深かった。それと、曲がりそうになるが、直ぐに元に戻る!』
という。 用心深い両親は学歴が無かった分、必死に基礎教養を日常生活から
求めていた。趣味も、しかり。早寝、早起きも同じ。連合いへの別立て給与
の支給と別口座預金も、実家からの継続習慣。今回の事業整理の決断も、
本能的に幼児体験と、両親の教えのベースが働いたため。その辺の下衆の
想定とは? 違っている。父親にとっての太平洋戦争と、敗戦は、それまでの
価値観が根本から変わった一大イベント。 日本人は軍人が230万人、
一般人が80万人死亡したが、東北大震災の死者の150倍である。
 それでも、資産管理は、手堅くしており、何とか戦中、戦後の混乱期を、
何とか乗り越えていた。その幼児体験を、そのまま書けば、これほど面白い
舞台と物語はないはず。「すざましい!」の一言。 父親は二代目だが、私の、
この随想日記は、まさに悲しいかな、<売り家と唐様で書く三代目>の現代版
と自覚をしているが、実家文化のお陰で、何とか軟着陸をすることが出来た。
しかし、人生を十分に楽しんだことだけは、両親に負けてない。これ、負け犬
の遠吠えか! 45年の事業人生を十二分に楽しんだのだから、両親も許す?
「日々、是、口実」ということ! そういえば、母親に晩年に聞いた逸話。
<父親が徴兵されたが、肋膜で、除隊をされた。今さら、地元に帰れなく、
 東京の同業者の一間に、一年間、居候していたことがあった> という。
父は一切、その話をしなかったが、他人には言えない話は、誰にもある。
父親に魂を通して『これ、話してよいか』聞いたところ、
『娑婆のことは、娑婆で判断して良い。死んでしまえば、そこまで、
此方は、此方の世界がある。』という。そう悪いところではなさそうだ。
それも、これも妄想でしかないが。 さて、花を買って墓参りだ。

・・・・・・
5189,閑話小題 〜父親の42周期に
2015年05月30日(土)
   * 父親の42周期に
 毎年、父への想いを書いた内容を読み返すと、年齢ごとの思いを書くこと、
書き残しておくことの秘儀の意味が見えてくる。父親の亡くなった年齢に、
あと二年でなる。 余命が少ないことを悟って死ぬまでの生き様、死にざまを
通して多くのことを学ぶことが出来た。 死んでしまえば、いっさい無。
物や金を残したところで、あの世に持っていけるわけでなし、あるのは暗黒の
死の不安と、人生の後悔。死を前にすると、世間とかいう壁がうき上がってくる。
そして、それが如何に、他愛がないものと思えてくる。 あの超保守的な父が、
何を思ったか、『赤旗』をとって読み始めて、自民党批判を始めていた。
それと、死に関する予備知識の絶対量が必要ということも痛感した。しかし、
誰も『自分が死ぬ!』とは思わない。『他人は先、我はあと』と確信している。
あの時の父の激しい生への希求が直接伝わって、「当りまえの、先ある人生が

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05月30日(月)
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