ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5432,人生で最も大切な技術 ー⑫ エゴのベー
『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
*エゴのベール 〜投影という防御機能
これからすると世間は、「精神の錯乱を錯乱と気づいていない、ごく普通の
人たち」になるが、問題は自覚しているかどうか。誰もが、それぞれ屈折した
レンズの眼鏡をかけ、それを現実と勘違いをし、一生、気づくことなく終える
ことになる。そこで瞑想を身につけるべきと、いう。要するに、世の中の殆ど
が、実は精神の錯乱者? と、すると、私だけでは、ないのか(笑)。
錯乱はエゴのベールが、原因。 〜その辺りから〜
≪ 精神の錯乱とは、現実の姿を正しく見ることを妨げ、事物の本質に対する
理解を曇らせるベール、と表現できるだろう。具体的には、幸福を見つけ
だして、苦しみを避けるにはどう行動すべきか、という判断のできない状態。
外界に目を向けるとき、本来備わっている特性など不在であるにもかかわらず、
自分が目にする世界には確固たる実体が備わっているというふうに見てしまう。
また、内側に目を向けるとき、もう存在していない過去、そして未だ存在して
いない未来の間に「私」を存在させて、意識の流れをそこに凍結してしまう。
事物を見るとき、目に見える表面の姿を実体として信じ込み、滅多に疑う
ことをしない。また、人や物を見るとき、「これは美しい」とか「これは醜い」
と考えるが、それらの人や物に自分が感知したままの特性を焼き付けている
だけであることには気がつかない。
そして「美しい」や「醜い」が人と物の根源的な特性ででもあるかのように、
自動的に当てはめてしまう。人間はまた、世界全体を「好ましい」と
「好ましくない」とに区別して見たがる。しかも、短命で儚い存在を永続
する存在と受け取ったり、世の中が実際には常に変化し続け、相互依存の
関係で成り立っているのに、どこにも無関係に独立した固有の性質がある、
というふうに見たがる。また、事象、状況あるいは人間の特定の側面だけを
取りだして、その面の性質に焦点を合わせて、「敵」「善入」「悪人」などの
レッテルを貼りつけ、これらを本来の属性と勘違いしてそれにとらわれてしまう。
そうせずに、現実の姿を注意深く観察するなら、物事がそれほど単純なもので
ない、ということが明らかになるだろう。
仮に、自分の目に入る対象が真に美しいか快適で、そうした価値が純粋に
その対象に属しているなら、その対象はいつどこでも望ましいものであるはず
だろう。とはいえ、誰も異議を唱えずに、「美しい」と普遍的に認められる
ものがこの地球上に存在するだろうか。 仏教詩の中に次の一節がある。
「美女とは、恋人にとっては欲望の対象、修行者にとっては乱心の元、
狼にとっては格好の獲物」。 同様のことが嫌悪についても言える。
対象が本質的に嫌悪すべきものなら、もっともらしい理屈をつけて、誰もが
それを避けるだろう。だが、物や人間にそうした性質や特性を単純に当て
はめているに過ぎない、ということに気がつけば、すべてが変わってくる。
すべての美しい対象が、元々精神的に有益な価値が備わっているか、
というとそうではない。逆に、醜い対象物だからといって、それが精神を
阻害する性質が根本的に備わっているというものでもない。
同じく、今現在、自分にとって敵である相手でも、他の誰かにとっては
愛の対象である可能性は十分にある。今日の敵と、ある日、友情の絆を結ぶ
日が来るかもしれない。自分が勝手に対象に貼り付けた特性が、対象とは
切っても切れない属性であるかのように反応する。かくして、現実の姿から
自らを遠ざけ、自分の心の状態を他者や物に映しだす、投影という防衛機能を
容赦なく活動させながら、目に入る対象に対して、これは魅力あるとか、
これは嫌悪すべき、と感じつつけるのである。 ≫
▼ 世間、社会のありようを、そのまま描写した内容である。これからして、
あまり世間原理主義教徒を、とやかく言うべきでない。要するに誰もかも
が無知なだけ。問題は、その無知を自覚できるかどうか?家庭内で、それが
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01月29日(金)
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