ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5427,人生で最も大切な技術 ー⑧ 快楽は見せかけの友人
『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
* 幸福と快楽 …重大な混同
「安楽こそ幸福」といえば、欧米の長期のバカンスがある。合理的日常から
離れて、ひたすらボ〜っとする。遊び慣れ快楽など今さらの人が求めるのは、
生活の雑事から開放され、ひたすら大自然と一体になること。それが安楽。
文化人の行きついたところが、「安楽」なら、未開人と何処が違うのか。
で、構造主義に到達する。〜その辺を抜粋〜
≪ 外的な要因と精神的態度、すなわち心構えのうち、どれが本当の幸福を
もたらすもので、どれがそれを阻害するものかを見分せようとする場合、
「幸福とそれに似て非なる特定の状況」とをはっきり区別することが必要。
最も起こしやすい間違いは、「快楽を幸福」と取り違えること。
ヒンズー教には、「快楽とは幸福の影に過ぎない」という教えがある。
快楽は、肉体的、美的、知的な刺激を受けた直接の結果である。
場所とか瞬間などの条件が揃った特定の状況において、束の間の快楽を
経験することができる。快楽は本来、一定で、快楽に誘引される感動は
直ぐにかすんで無色になり、ついには不快感さえ味わうようになる。
・・(略)快楽はまた個人的な経験でもある。その大部分が自己中心的で
あるがゆえに、自分本位に陥り、時には他者の幸せと矛盾することもある。
性的行為は、快感を相手と交換しあうことで相互に快楽を得る。しかし、
この種の快楽も、相互関係と利他の心が中心にある場合にのみ純粋な幸福を
感じられるものである。他者を犠牲にし、快楽を経験することもできるが、
そこから幸福を得ることはまずない。 快楽は、残酷、暴力、傲慢、欲、
その他の心情と結びつくこともあり、本当の幸福とは両立しない。
フランスの作家で批評家のドールヴィイは、「快楽とは狂人の幸福であり、
幸福は聖人の喜びである」と書いている。中には復讐や拷問を楽しむ人間
もいる。同様に、競争相手の破滅に有頂天になるビジネスマンもいれば、
盗品を肴に祝杯を傾ける盗賊もいるし、闘牛の観客は牛の死を見て狂喜する。
そのどれもが束の間の快楽に過ぎず、時にはそれが病的な高揚状態をもたらす。
これらも幸福とはまったく無縁である。・・・(略)
快楽とは異なり、心が純粋に生気に溢れた状態は、たとえ状況に影響
されることがあっても、支配されることはなく、意気消沈することはない。
持続性があり、経験を積むうちに鍛えられる。時間の経過でそれは第二の
天性と呼ばれ習慣として体得され、達成感という副産物をもたらしてくれる。
本物の幸福は、活動とは無縁である。それは人間の在り様、すなわち、
心がどのように機能するかについて正しい理解に到達することで、感情の
バランスが見事にとれている状態を指す。 普通の快楽は、快適な対象と
接したときに生じるが、その接触がなくなると快楽は消滅する。
反対に、永続的な安楽は、内なる本質と完全に調和している期間中ずっと
持続する。 安楽は、自己への執着を超えて、内側から発散してくる平安な
無我の状態を一つの側面とする。自分とうまく調和できている人は、
家族、隣人、場合によっては社会全体とも良好な関係を維持するために
自発的に貢献しようとする。 要するに、快楽と幸福は直接的な関係がない。
だからといって快適な感覚を求めてはならないということはない。
壮大な景色、海水浴、バラの香りの楽しみをすべて止めなければならない
理由はない。ただ、心の平静さが損なわれ、満足感を得ることに執着し、
快楽の妨げとなる何事をも毛嫌いするようになると、快楽は障害となる。
快楽は、幸福どは本質的に異なるとはいえ敵ではない。ただ問題になるのは、
快楽がどのように経験されるかである。所有に取りつかれるとき、あるいは、
心の自由が妨げられるとき、食欲と依存症の兆候が頭をもたげ、幸福が妨害
される。一方、心地よい瞬間とか、心が平静で自由な状態で経験される快楽は、
幸福に影を投げかけることはなく、かえって幸福を引き立てることになる。≫
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01月24日(日)
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