ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5422,人生で最も大切な技術 ー⑥
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 幸福に関する名言 〜現実と洞察
 現実と同察の間には、必ず差異がある。その差異で間違いを起こして、
それを埋めていく過程が人生だが、その差異が、ますます大きくなった結果、
不幸が現れ出る。恋愛など無明同士の儚い感情の結果は、ご覧のとおり。

≪ 現実とは何か。仏教では、現実とは、物事のあるがままの姿のことを言う。
 人間の心は、いろいろな層が重なりあい、絡まりあって構成されているが、
そうした心の構成に修正されないあるがままの状態を指している。
表面に見えているものと、あるがままの本当の姿との間にギャップがあれば、
人間はこの世と永遠に対立し続けることになる。タゴール〔インドの思想家〕
は、「自分たちが世界を誤って見ておいて、世界が自分たちを裏切る、と嘆く」
と書いているが、人間はとかく、つかの間の儚いものを永久不変と勘違いして、
苦しみの原因である富、権力、名誉、快楽へのあくなき欲望を、幸福の目的と
受け取ってしまう。知識というと、大量の情報を手にすることとか、学問に
秀でることと考えがちだが、真実は、物事のあるがままの姿を理解すること
なのである。私たちは、表に現れている仮の姿を、そのものに本来備わった
性質をもった、何ものにも依存せずに独立して存在するもの、と勘違いする
悪習からなかなか抜け出ることができない。何が「善」で何が「悪」かを
日常の経験から判断するし、その善悪を区別する「私」についても同じように
具体的な実体ある存在と考えてしまう。 仏教では、この誤解を「無知
(または無明)」と呼ぶ。無知は、苦しみを導く根源である執着と嫌悪を
強力に反映している。エテイ・ヒレスムは、簡潔な表現でこう述べている。
「そのような大障害は、常に仮の姿に過ぎず、現実の姿ではない」。
無知と苦しみの世界は、サンスクリット語でサンサーラ(輪廻転生)、
すなわち、存在の本来の姿ではないものを真実の姿と妄想する、
人間の誤った見方から起こる心の世界のことである。
 目に見える外面的世界は無常に変化する無限の原因と条件が絡まり
あって構成されている。例えば、太陽が雨のカーテンを横切って輝くときに
虹が出るのを考えてみよう。その虹を作りだす要因の一つでも消滅すれば虹は
見えなくなる。いかなる現象も原理はそれと同じで、独立した固有のものは
何一つなく、相亙依存の関係で存在している。この世のあらゆるものは因果の
力の影響を受けている。この基本的な考え方が正しく把握できたとき、この世
に対する見当違いの見方が修正され、物事のあるがままの姿を正しく見られる
ようになる。これこそが真の洞察である。洞察は、単なる哲学的な論理の
組み立てとは違う。精神的な盲目とか苦しみの最大の原因である、心を乱す
感情を一掃するための根本的なアプローチなのである。
どの一粒のゴマからも油が抽出できるのと同じで、生物はすべて完成に至る
潜在性を秘めている。このように物事を捉えるなら、無知とは、単に完成の
可能性に気づかない状態だ、ということがわかるだろう。ちょうど、自分の
小屋の床下に埋められた宝の存在を知らずに、どん底の生活をする乞食と同じ
である。自分本来のあるがままの姿を実現することは、隠された宝を手に
入れるのと同じことで、本当に意義深い人生を送ることを可能にしてくれる。
それは、心の平和を得る最も確実な方法であり、純粋な利他心を引き出す方法。
 ジョージ.ベルナノス〔20世紀前半の仏国のカトリック作家〕はこう述べる。
「まるで、嵐の真っ只沖にあっても、静まり返っている巨大な湖の底のように、
何ものもそれを変えることができない」。安らかで心地よいこうした状態に
ある幸福感をサンスクリット語で「スカ(安楽)」という。安楽とは、聡明さに
欠けた状態と苦痛の感情から自らを解き放つときに自然に現れる、精神の健全
さが永続する状態をいう。私たちが、ベールを通さず、偏見もなしに世界を
あるがままに見るための叡智ともいえる。そしてまた、心の自由と利他の

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01月19日(火)
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