ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4986,暴走する世間 −3
             「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
   * 世間学的エポケー
 節目時は、それまでを一度、清算して、新たな世界への区切りである。
その時に重要なのは、その時に感じたことを優先すべしというのは、現在の私に言えること。
その意味で、毎日、書き続けている、このブログは、大きな役割を果たしている。だから、
世間という幻想、幻覚に迷いそうな、いや、迷っている自分を見つめ続け、
世間学的エポケーの立場を守らないと、その節目が薄れてしまう。 ーその辺りからー
≪ エポケーというのは、E・フッサールの現象学の用語である。エボケー{現象学的判断伴止}
とは、自分がそれまでとらわれていた主観/客観という世界認識の方法の自明性を、いったん
カッコに入れるという、世界像の判断停止のことである。これにならっていえば、自分がこれまで
自明であたり前だと思っていることの一切を、デカルトのように徹底的に疑い、すべてをいったん
カッコに入れる。  〜フッサールの現象学的判断停止について、哲学者M・メルロー・ポンティが、
次のように説明している。
< われわれは徹頭徹尾世界と関係していればこそ、このことに気づく唯一の方法は、
このように世界と関係する運動を中止することであり、あるいはこの運動とのわれわれの
共犯関係を拒否すること(フナサールがしばしば語りているように、この運勤に参与しないで
それを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。
それは常識や自然的態度のもっている諸確信を放棄することではなくて―それどころか
逆に、これらの確信こそが哲学の恒常的なテーマなのだ― むしろ、これらの確信がまさに
あらゆる思惟の前提として〈自明なものになっており〉、それと気づかれないで通用している
からこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させるためには、
われわれはそれらを一時さし控えねばならないこそそうするのである。>
 そのさいに重要になるのが、「内在」という現象学の方法である。それによれば、自分の
判断の根拠を、自分の「感じ」だけに置く。いいかえれば、たいていのものは「可疑的」、つまり
疑いうるが、疑いえないものがたったひとつあり、それが自分が「こう感じた」ということだという。 
簡単にいえば、他人がいうことではなく、「世間」の評価ではなく、自分が素直に「感じたこと」
だけを信じる、ということである。思いだしてほしい。じつは、さきほどのべたように、これが
阿部さんの「世間」論の方法だったのだ。自分が「感じた」ことだけを信じ、これに徹底的に
言葉を与えてゆく。すべてのものは疑いうるが、たったひとつ、疑いえないものがある。
それが自分の「感じたこと」なのだ。≫
▼ 「大病による長期休養」や、「長期間の旅」はエポケーになる。人生には、一度、属している
世界の外に出て、自分を見つめなおす必要性がある。外側から、内側で「感じたこと」を
感じなおす必要性である。以前から、小さな洞窟内を自己に、その前にある湾を世間に例え、
その外海を社会に例えていた。自分(洞窟)と、世間(その前に広がる砂場)と、外界を見極めて、
外から、これらを見つめなおすことが必要である。所詮は、これらは集団幻想でしかない、
そのことを自覚するためにも! 
・・・・・・
4619, 君は1万円札を破れるか? ー6
2013年11月08日(金)
    * 内部表現とは? そして、内部表現の書き換えー①
 「内部表現」という言葉が新鮮である。目には見えない「心(脳)」「無意識」「潜在意識」ということ。 
人は、この内部表現によって自動操縦されている。この随想日記は、「内部表現」そのもの。
過去文を読むと、よくわかる。 ーまず内部表現を記した部分を、この本とネットから抜粋してみる。
◇ 「内部表現とは、一言でいえぱ、その人に固有の情報状態です。この世界について、
自分の認識している情報だけを書き込んだハードディスクのようなものです。そして、情報である

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11月08日(土)
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