ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4983,暴走する世間 −1
           「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
   ーまずは、アマゾンの解説からー
< 日本社会の見えないオキテ、それが「世間」である。事件が起きマスコミで報道されるたびに
「犯人」にたいして極端なバッシングが起きるのも、「空気を読め!」という無言のプレッシャーが
生じるのも、携帯を使ったいじめが起きるのも、「世間」という同調圧力のなせるわざ。
「お世話さまです」「おかげさまで」といった物言いにさりげなく顔をのぞかせ、いじめ・うつ病
・自殺の引き金にもなる「世間」。バブル崩壊以降とみに暴走しはじめた「世間」の危ない構造に
メスを入れる長編評論> ~~
~~森林(現役)の生活からサバンナ(御隠居)へ、住居を移動したことで、見えていた世界が
様変わりをした。社会から、世間への移動?それとも、逆? いずれにしても、ますます、独善に
なっていく自分がいる。 世間的強制力にアタフタするのは、やはり個人が確立してないため。
 実は社会も、世間も共同幻想でしかない。そう思えば楽だが、それが比較的楽に出来るのが
御隠居の身分。 ーその辺りからー
≪ 社会も個人もいない「世間」のなかで、「世間」的強制力をともなって、個人に責任を
押しつける「自己責任」や「心理主義」が強調された場合、「世間」はますます住みにくくなる。
しかし「世間」は、日本人であれば、生まれたときから取り囲まれ、あるものと親から教えられ、
そのなかで生きてきたから、それを意識的に取りだすのがとてつもなくむずかしい。 
これに加えて、「世間」は具体的なものではなく、ある種の共同幻想、つまり人々のアタマに
宿る観念である。人によって「世間」は広かったり、狭かったりするが、それは「世間」とは
関係そのもののことであって、本質的には人間のアタマに宿る共同幻想だだから。
 共同幻想とは、複数の人間に宿す観念である。厳密にいえば二人の間だけでは、共同幻想
とはいえない。たとえば恋愛関係などのように、二人の対になる関係においては、世間は存在
しない。この二人の関係を、思想家の吉本隆明さんにならって「対幻想」とよんでおくことにする。
 「世間」は三人称的な関係で、三人以上の人間が共同して生みだす幻想である。
なぜかといえば、「世間のオキテ」といったようなルールや規範が存在するためには
三人以上の人間を必要とするからだ。「世間」は幻想であるから、ないと思えば、ない。
「世間のオキテ」も、ないと思えば、ない。げんに外国で生まれ、日本に住んでまだ間が
ない外国人には、「世間」も「世間のオキテ」も間違いなく、ない。だから原則として外国人は、
「世間」には入っていない。かなり長く日本に住んでいる外国人でも、日本の「世間」のなかに
入ることができるのは、まれである。外国人が「日本人はとっても親切だ」というのは、
かれらがはじめから「世間」に入っておらず、そもそも「世間」の外にいる「お客さん」であるから、
親切にされるにすぎないのだ。 問題なのは、「世間」が具体的なものではなく、共同幻想で
あるがゆえに、それを否定するのが相当にむずかしいということである。具体的なものなら、
捨てるか、近づかないようにすればいいが、共同幻想は観念そのもののことだから、
そうはゆかない。簡単に捨てることができないし、そのなかで生活している以上、近づかないで
いるわけにもゆかない。だからこそ、「世間」の存在はなかなか意識化できないのだ。
しかし、これを意識化する方法がある。それが、「世間学的エポケー」である。・・・≫
▼「あの老人、一度も恋をしたことが無いんだって!現実に溺れすぎて」という強烈な言葉がある。
 共同幻想の前の「対幻想」の幻想である。その共同幻想も、何も考えもせず、ただ、成り行きで
染められた幻想でしかない。Uターンで地元に帰った時に感じたのが、城下町という特殊の世界。
専門が社会学だったことと、10年の間の外界経験から、これが特殊ということが分かっていた。
で、アウトサイダーに徹し、そして、事業場を新潟にした。これが「世間学的エポケー」

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11月05日(水)
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