ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5912,『しあわせ仮説』 ー10
あることを喜び、それ以外に何も要らないし、もちろん手にも入らない
ことを理解する境地。身体で、感性として理解する境地。
・死本来の恐ろしさとは、無で「ある」ことでなく、なぜか
いったん存在してしまったものが無に「なる」ところにある。
・感覚ではなく心の中の何かに向けられるクオリアを、志向的クオリアという。
「死が怖い」という感じもクオリアだ。「怖さ」のぞっとした感じが心の中
からわき上がってくる。
・人間として生まれ落ちて以来身に付けているこのいきいきとしたクオリア。
これを失いたくないということが、死にたくないということと、根本的な
意味では同義なように思われる。このかけがいのないクオリアは、あろう
ことか幻想。本当はないのだ。脳の無意識の計算がやっていることなのだ。
・知情意のクオリアは結びつけ問題を解くためにあるのか? 僕たちが
生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんてなかった。何もなかった。
無だ。ところが何の因果か、僕たちは、たまたま知情意のクオリアという
幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから、生きている感じがしている。
・僕は「意識は体験を記憶するために作り出された機能だ」と考える。
僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんかなかった。
何もなかった。無だ。ところが、何の因果か、僕たちは知情意のクオリア
という幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから生きている感じが
している。しかし、ほんとうは人間もロボットと同じ自動機械なのだ。
・そもそも、自分が、自由意志や自由な知覚を持っていると思うから、
死にたくないと思うのだ。
▼ 知情意のクオリアも、心の中の何かに向けられる志向的クオリアも、
幻想でしかない。実際にそうなのだから、「死ぬのが怖い」というのは
幻想そのもの。半世紀以上以前の中学校の頃、ひとり死を考えて、底知れぬ
恐怖を覚えていた時を考えれば、その恐怖感は、幻想でしかないことが分かる
はず。間近に迫った死を覚悟した時から死ぬまでの間に、それまで生きてきた
全人生を生きる、という。その時に「これは幻想でしかない」と、思えるのか。
05月23日(火)
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